陽だまりに青梅草が咲きました。
庭に植えてから40年は立つが、青梅市吉野農協園芸センター(現JA西東京グリーンセンター)で営農指導員をされていた青木就一郎さんは、昭和40年代の終わり頃、地元の青梅草が、乱開発によって衰微の状態にあったことから、園芸センターの事業として保護増殖に当たられた。
青梅草は、福寿草の野生種で、青木さんは保護運動の中心人物だった。
青木さんは、酒も飲まず仕事重視の方で、指導経済部長の時に
昭和50〜51年度の東京都農協指導者推進協議会(現JA東京指導員連盟)会長もされていた。
当時若造の私としては親しく語り掛ける雰囲気ではなかったが、山野草が好きだったので、青梅草の増殖で実績を上げていた青木さんに、思い切って頼んでみた。
青木さんは、「大事に育ててな・・・」と云って手渡してくれたので、地植えにしたことで、毎年花を咲かせてくれ、青木さんを思い出す。
江戸時代には、秋の終わりに伸び切った葉が枯れると、根を掘り上げて、水苔を巻いて江戸に出荷したという。
福寿草の愛好家は江戸には多く、野生種は珍重されていた。
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花びらの落ちたものもあった。
2月21日撮影、葉が伸び花を覆っている。
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参考(東京農業普及30年の歩より)
青木就一郎(大正12年生)青梅市梅郷
昭和28年には晩秋胡瓜の導入を図り予想以上の成果を修める。
昭和44年には梅の新品種「梅郷」を固定し登録品種とする。
48年には日本農業賞東京代表に選ばれるなど
その指導力は高く評価されている。
普及事業とは発足当時から良き理解者として協力をされ
特に梅については氏の功績によるところが大きい。