都市農業ツアーの企画を検討する中で、2003年度の2004年3月に江東地区の代表的農業者と、江戸からの農業技術を伝える ”つま物栽培” の現状を、東京23区内の農家女性に見てもらった。
この企画は、事務局長をされていた渡邉和嘉さんで、
JA東京あおば出身ということで、渡邉さんが生産者などに依頼した。
第2回は2004年度11月8日に城北地区で開催されていて、板橋区と、練馬区の練馬地区と大泉地区の農業を見て回っている。
23区の代表ということで、皆さんが集まりやすいところで、丸の内のJAビルに集合してバスで、板橋区に向かった。
城北地区は、JA板橋、JA練馬、JA石神井、JA大泉の4JAが、2009年に合併してJA東京あおばを組織していた。
JA東京あおばの高島平支店のファーマーズショップ「にりん草」に向かった。
にりん草は板橋区の花で、この辺りにさいていた可憐な山野草だが、支店を作るにあたって店を金融店舗と経済店舗を並べたことから二輪の意味合いもあると伺っている。
支店長された、渡邉和嘉さん(現江戸東京・伝統野菜研究会副代表)は、都心に最も近いマンモス団地の高島平団地に、近い店舗として板橋の生鮮野菜や花など、産地と直結した都市農業を団地の皆さんに知ってもらいたいと、ファーマーズショップを前面に出した設計を提案している。
その後、この店をきっかけに、新しい店舗設計の模範となっている。
徳丸田圃とか赤塚田圃とか言われた田圃の写真は、戦後23年ころにGHQが撮ったものだ。
田圃の右岸あたりが都営地下鉄三田線の蓮沼駅で、
田圃の中心当たりが高島平駅になる。
写真上部が、新河岸川で、右上の太い水路は、現在の板橋区立舟渡水辺公園。
この地域が、「高島平」と呼ばれるようになったのは、天保12年(1841)に、高島秋帆が徳丸ケ原で、日本で初めて洋式砲術などの公開演習を行った。これにより、昭和44年に板橋区によって高島平と名付けられた。
この田圃に伝わる「田遊び」は国指定重要無形民俗文化財で、板橋区農業委員会の中尾克男会長が中心になって伝えていたが、当日は支援をしていた板橋出身のJA東京あおばの篠田裕夫組合長が謂われを話してくれた。
徳丸北野神社は、2月11日、赤塚諏訪神社は、2月13日に開催されるが、
今年は、緊急事態宣言発令下、一般公開はしないとか、残念!!。
上の画像をタップする
2001年に建設された、農と住の調和をポリシーにした
ふくし農園付きの「錦・太陽の里」
「農住都市構想」の手法を大幅に取り入れた制度で、
江戸東京野菜探訪バスツアーを実施している都農住都市支援センターが指導している。
大泉地区では全国の農業後継者の代表をされた白石好孝さんの農園へ。
現在全国に広がっている、農業体験農園は練馬の加藤義松さんが始めたものだが、第2号の農園が、大泉の白石さんで、同時は東京全体に広げるにはよい機会だったので、23区内の農家女性の皆さんに話を聞いて頂いた。
白石さんのお隣の小川収さんの圃場では、花壇苗やシクラメン栽培を行っていた。
農家の皆さんは、自営の農業形態以外は初めて知ることばかりで、シクラメンは夏場は涼しい地域で栽培し、11月頃に最後の調整を自宅の温室で行うなど、手間のかかる作業などを聞いていた。