今日の東京都の農業指導体制は戦後の24年から動き出している。
戦後の日本は、米軍の支配のもとで、米国の制度が導入された。
農業協同組合の制度や、協同農業普及事業もそれで、法律に「能率的な農法の発達、農業生産の増大および農民生活の改善のために、農民が農業に関する諸問題につき、有益かつ実用的な知識を得」云々とうたっていて、
農地改革、農業団体の改組等、戦後における農村の民主化が図られ、
普及事業は農家が自主的に農業および農民生活の改良をすることを援助するといった建前になっている。
アメリカでは、州単位で導入されているという。
東京都では、昭和24年(1949)から普及員の採用をはじめ、駐在所を設置している。
その2年目の25年(1950)に採用されたのが、大先輩の大城芳彦さん(東京農大卒)で、
先日、亀戸大根の資料や、「南葛飾郡農会史」の資料を送って頂いた。
江戸東京野菜コンシェルジュ協会の講座では「伝統野菜は長老に聞け」として、講座を開催しているが、大城さんには断られたことがある。
大城さんは、平成12年(2000) に思い出話を書いていたが、未発表だというので当ブログで紹介する。
上の画像をタップすると「駆け出し普及員と江戸川の西洋蔬菜」
大城さんが駐在した江戸川では、大正時代初期には漢字表現で花椰菜(カリフラワー)、子持甘藍(芽キャベツ)などの、洋菜類が栽培されていて、昭和10年前後の頃が戦前では最盛期だったという。
昭和15年(1940) に東京オリンピックか予定されていたが、来日外国人は野菜を生食することから、下肥畑での栽培は問題視されていて、
東京市産業局では昭和11年度からの奨励事業として、蔬菜清浄栽培事業を20戸の篤農家で実施していたことが記録に残っていますとある。
後の都経済連の宇田川嘉一郎会長や、岩楯重錘さんの名前も載っていたという。
昭和39年(1964) の東京オリンピックの時には、東京の農業後継者が肥溜めの取壊し運動を展開していた。
この話は、練馬の渡戸章さんが話している。
カリフラワーだと一之江の岩楯重錘さん、サラダ菜、セルリーでは北篠崎の伊藤仁太郎さんの名前が挙がっている。
江戸川では、フランス料理店から依頼されてエンダイブ(にがチシャ)も栽培していた。
江戸川のセルリーについては、戦前から作られていたが大戦で中断していた。
「当時のセルリーは軟白しないと売れませんでした」とあるので、大城さんに詳しく伺うと、戦前からセルリーは、収穫のひと月前から、光を通さない米袋を上からかぶせて軟白にするという。
三つ葉なども、太陽を当てずに薄緑色に作ることが求められていたという。
「日本一」ブランドの伊藤仁太郎さんの荷は、築地市場の促成部で競られたが、「伊藤仁太郎」の名前を云うだけで、荷を見ずに当日の最高値が付いたという。
現在、伊藤さんの愛弟子だった並木猛さんは、清瀬でセルリー(コーネル)を栽培していると伝えると、大城さんは、昔並木さんから相談があったので、伊藤さんのところに連れて行ったという。
改めて、並木さんに確認すると、間違いなく、並木さんは大城さんに電話されたようで、
大城さんから「並木さんから電話があったと」喜びの電話がかかってきた。
大城さんは、「江戸東京ゆかりの野菜と花」の執筆者の一人だが、
亀戸大根、金町コカブをはじめ、
江戸川、葛飾、足立の伝統野菜について書いて頂いた。