先日、「日本橋 ゆかり」まで行った帰りに、学士会館に行く用事があって、東西線の竹橋で下車したが、2016年から解体工事をしていた丸紅本社ビルは、新たに超高層ビルになっていて、2021年5月24日に業務を開始する予定とか、
かつて、ここには中央気象台があって、子どもの頃(1955年)、義兄が中央気象台の予報官だったから、目黒から須田町行きの都電で何度も来たことがあった。和達清夫台長の頃だ。
中央気象台の場所には、現在丸紅本社とKKRホテル東京が建っているが、そこには時計台と鉄塔が2本建っていた。
当時は知らなかったが、一橋徳川家の屋敷地は現在の気象庁・大手町合同庁舎付近まで広かったようだ。
2017年までは、「一橋徳川家屋敷跡」は、緑あふれるコーナーだったが、さっぱりしたものになってしまった。
一橋徳川家は、寛保元年、八代将軍吉宗の第四子宗尹(むねただ)が、江戸城一橋御門内に屋敷を与えられたことに始まる。
一橋家、田安家と清水家は御三郷と呼ばれ、将軍家に世継ぎがなく、御三家(尾張徳川家、紀伊徳川家、水戸徳川家)にも将軍となりうる該当者がいない場合に将軍を送り込める家柄。
現在の橋は、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で被災したために。1925年(大正14年)11月に新たに架けられたもの。
因みに、田安御門内の田安徳川家は八代将軍吉宗が次男宗武を家祖にし、清水御門内の清水徳川家は吉宗の子で九代将軍家重が次男重好を家祖にしている。
将軍家に世継ぎがなく、御三家にも世継ぎがいない場合は、御三卿から世継ぎを出したが、一橋家だけが十一代将軍の家斉と、十五代将軍の慶喜を輩出している。
平川門には「江戸城内郭門の一つで三の丸から城外への出口にあたり、御三家・御三卿はここから登城しました。
現在の九段南一丁目や一ツ橋一丁目は平川村と呼ばれていたため、名付けられました。別名で「不浄門」とも呼ばれるのは、城内の死者や罪人がここから出されたことに由来します。」とある。
注・竹橋御門を入った炮筒御蔵の跡地に、ラーエ・ミクニがある。
フードボイスが毎月行っている経営者情報交流会は、学士会館で行っているが、一ツ橋を渡った先にある。
学士会館は、東京大学発祥の地で。
東京、京都、東北、九州、大阪、名古屋、京城、台北の9帝国大学の卒業生で学士会を結成、会館を建設し、その経営の当たっているという。