2021年05月06日

写真を整理していたら、西日暮里公園にも道灌にまつわる道灌山の写真が写っていた。


先日、都庁舎横の新宿中央公園にある、太田道灌の「久遠の像」
ことを紹介したが、

それ以外にも、写真を整理していたら、
道灌の銅像や、記念碑のようなものが出てきた。

道灌は、埼玉に城を幾つも持っていたり、
神奈川の伊勢原で殺されたこと等、周辺県にも記念碑や銅像がある。

何年か前に、西日暮里駅で降りて西日暮里公園に登ったら、
そこは廣重が描いた道灌山だったことが記された説明板がある。


西日暮里公園は、青雲寺境内の一部だったが、明治七年(1874)、
この辺一帯が旧加賀藩前田家に売却し、墓地となった。

昭和47年(1972)、前田家は墓地を国許の金沢に改葬したため、
翌48年12月に跡地は、荒川区立西日暮里公園となった。





1-1.JPG

この地は道灌山と言われ、太田道灌の出城だったとの伝承がる。

上の画像をタップする
かつてこの地はひぐらしの里いわれ、
江戸時代中期には市民の憩いの場所であった。

しかし、今や道潅山の下をJRが走り西日暮里駅ホームの屋根が見え、
その先はビルが林立して、筑波山は遮られている。






2-1.JPG

廣重の絵を見ると、手前は水田が広がりその先に、隅田川、
そして遠く筑波山が見える。

上の画像をタップする
道灌山のいわれが記されている。
山には薬草が豊富で、多くの採集者が訪れたという。






3-1.JPG

江戸時代から明治時代にかけて、道灌山は虫聴きの名所だったという。

上の画像をタップする
道灌山は太田道灌の出城の跡だったことから、鈴虫、馬追ひ虫、
轡虫(くつわむし)等が、うるさいくらいに鳴いていた。

虫籠を持ってきて、草むらの虫と競わせだ。尾形月耕の絵がある。





4-1.JPG

道灌山は、谷中七福神の青雲寺の裏山に当たる。

上の画像をタップする。
道灌山には道灌船繋松は台地に高くそびえていたが、
安永元年(1772)の秋台風で一本が折れ、残り一本になってしまい、
この松を懐かしんで「日暮里船繋松の碑」を道灌山に建てたが、
現在は青雲寺境内に設置されている。






5-1.JPG

絵の右上に、道灌山から続く台地に浄光寺が描かれ、
御腰掛所と六地蔵の文字あり、

上の画像をタップする
御腰掛所は「三代将軍腰掛石」とあり、
家光が腰を掛けたという石がある。

荒川区教育委員会の説明には
八代将軍吉宗が鷹狩の時の御善所となったとあるが、
御善所では三河島菜が出されたと聞く。

「将軍腰かけの石」がある、文章の流れからして三代将軍とは
書いてないから、説明不足で吉宗が腰かけたと勘違いしやすい。

posted by 大竹道茂 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | その他関連情報
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック