東京の西、あきる野市の留原(ととはら)地区に、大型のエンドウがあると聞いて、石川敏之さんに案内してもらって、河村郷子さんが栽培している留原エンドウを見せてもらった。
確かに大きい、どのような歴史があるのか、今年初めて栽培した河村さんも詳しくはわからないと云うので、地元JA秋川の役員に聞いてみようと思っている。
石川さんから河村さんのことは、石川さんが出店した ”秋川クラフトマーケット“ に自作の陶器を出品していた陶芸家で、あきる野市高尾の「またたび工房」で創作し、あきる野市戸倉の「ネオ・エポック」に、常設展示している、と聞いていた。
ご主人の正之氏は、教育者から画家になったとfacebookに自己紹介している、芸術家夫妻。
河村さんの畑には、固定種の野菜等が色々栽培されていて、タネ袋を見せてもらったが、沢山のタネ袋がファイルしてあった。
シャインマスカットも栽培しているとかで、ぶどう棚がそれだったが、
上を見ていたら、手前の日当たりのところに、ミズゴケに植えられた、サギソウの鉢植えが並んでいた。
若い頃,サギソウやエビネ、クマガイソウなど野生蘭に凝っていて、栽培していたから、芽生えた葉を見てすぐわかった。
河村さんのFacebookのサギソウ。
世田谷に伝わる鷺草物語
時は室町時代、世田谷城主・吉良頼康は血を絶やさぬように十二人の側室をもっていた。
ある日、家臣で奥沢城主・大平出羽守の娘、常盤は宮仕えの縁から頼康の側室に迎えられた。才色兼備の常盤は頼康の寵愛を一身に受け、やがて、常盤は子をみごもり、なに不自由ない幸せな日々を送っていたが、それは長くは続かなかった。
十二人の側室は常盤に嫉妬し、頼康につかえていた小姓と不義密通をはかった子だとざん訴され、遠ざけられた。常盤は悲しみ、死を決意。幼い頃から愛育した白鷺の脚に遺書を結びつけ、両親の住む奥沢城へと放った。
たまたま、奥沢城付近で狩りをしていた頼康が白鷺を射落としたところ脚には手紙が結びつけてあり、開いてみるとそれは常盤の遺書。頼康は遺書から常盤の潔白を知り、急遽帰城したが時すでに遅く、哀れ常盤はこと切れ、男の子を死産していた。
不思議なことに白鷺が射落とされたあたりからは一本の草が生え、白鷺に似た花を咲かせるようになったという。
サギソウの種類には、変わり花・ 大輪花・芳香花 ・ 覆輪 ・ 散り斑・ 中斑・黄葉・その他葉芸 ・ 青葉などがあるが、
現在河村さんが栽培しているのは、「武蔵野。福島。銀河。天の川、玉竜花。
その他分類が分からなくなってしまった青葉。そんなにたくさんは、ありません。
武蔵野の特徴はフワっと羽が上向きになったような花型。良い香りがある事です。」とのこと。
当ブログでは、西砂の中里和江さんと、練馬の井之口喜實夫さんのサギソウを紹介している。
「我が家のこのサギソウは、世田谷産のサギソウで、三軒茶屋の中村さんが、ご自身の所有地の田圃から採って作られていたものと、母から受け継いでいます。」
河村さんは単なる趣味で栽培していると思っていたら、何と、亡くなったお母さんは、鷺草保育会、鷺草愛好会の会長などで活動し、講習会を開いたり、NHKの趣味の園芸で講師として出演していた木村なほ先生で、
今では絶版となったサギソウ栽培のバイブル「サギソウの観察と栽培」を表している。
若い頃は牧野富太郎博士と、植物探索にも行ったりしていたそうだ。
河村さんの庭にいると飽きない。別棟の柱に小鳥の巣箱、何の小鳥かと思ったら、雀が飛んできた。
スズメもFacebookに掲載してあった。