2021年06月28日

東京の瑞穂町には江戸の頃、富士山(ふじやま)村があり、富士山入り口のバス停があった。


先日、江戸東京野菜を描いた、葉画家群馬直美さんの作品が展示されるというので、瑞穂町郷土資料館のけやき館に22日の初日に伺ったが、
ここの住所が瑞穂町大字駒形富士山だった。

これまで東京に残る富士講の富士塚をめぐってきて、千駄ヶ谷の富士塚を紹介しているが、この地にも富士塚があるのか、作品展示を見た後、富士の名のつく辺りを歩いてみた

けやき館の帰り、都道166号線に出たあたりに「富士山(ふじやま)入口」
の西武バスの停留所があった。

次の停留所は富士山だったが、山はなく近くにあるのは緑の狭山丘陵で
これが富士山なのか・・・。






1-1--1.JPG

上の画像をタツプする
車で来たので、丘陵の周りに駐車場がないかと探して、
浅間谷津の登り口に車を停めるスペースを見つけて、
そこから上った。

丘陵は都立野山北・六道山公園で、その北西の地、
浅間神社の社が見えてきた。








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富士講の富士塚頂上に鎮座する浅間神社とは異なり、
社殿が建っていたが、霊峰富士の溶岩など一切ない。

上の画像をタップする


瑞穂町のHPによると、江戸時代初期に、大阪城の落武者が帰農し
開村したのが富士山村と云われ、古文書には「富士山新田」という
村名で記されていて、浅間神社は富士山村の鎮守であったという。

社殿のある位置は富士山村と箱根ヶ崎村の境界上に位置していた
ことから、宝永五年(1708)に富士山村と箱根ヶ崎村で帰属争いが起き、
幕府に裁定を依頼した結果、箱根ヶ崎村に帰属するものとされた。

社殿裏には西口駐車場に降りる木造の富士山階段がある。、
幕府裁定以前は表参道で、社殿は富士山村を向いていたが
裁定後社殿の向きを現在のように変えられ、表参道も変わった。

木々が鬱蒼として、霊峰富士を望むことはできないが、
社殿から表参道方向(70数キロ先)に、霊峰富士がある見当だ。

駒込の富士神社にあるように江戸初期からの富士山信仰により幕府裁定は霊峰富士を望むことが出来る箱根ヶ崎村の帰属を
指示したのではないだろうか。







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大多摩ウォーキング・トレイル
に浅間神社から100bの地に八雲神社が

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参道には、昭和2年建立の石坂紀念碑と鳥居建設碑が建っていた。
箱根ヶ崎村中とあり、富士講とは異なるようだ。







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浅間神社の鳥居の横に、八雲神社が

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八雲神社は寛政11年(1799年)に野山より現在地へ遷座したと
伝えられている。







6-1.JPG

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地図には。箱根ヶ崎浅間神社の尾根に囲まれた一角には、
江戸東京野菜を栽培する都立瑞穂農芸高等学校があり、

地図の北には、瑞穂町郷土資料館けやき館と耕心館がある。

posted by 大竹道茂 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 農のある景観と環境
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