昨年、玉川上水の取水口、羽村を紹介したが、承応3年(1654)に玉川上水は完成した。
羽村より下流域に、玉川上水の完成以後、多摩川の水が、上水南部の水田や農地を潤していた。
昭島市拝島町5丁目近辺に「9ケ村用水取水口跡」がある。
9ケ村は、上流から拝島村、田中村、大神村、宮沢村、中神村、築地村、福島村、郷地村(以上現昭島市)、そして柴崎村(現立川市)を流れた。
明治44年(1911)に、取水口として樋菅が構築された。
しかし、東京市の人口増加に伴って、狭山丘陵の谷を生かして昭和2年にダム湖の村山貯水池を完成させ、羽村の取水堰で取り入れた水を導水管で村山貯水池の上湖に入れた。
これにより、多摩川の水量が減ったことから、9カ村の取水口が高くなり使えなくなってしまい、樋菅は埋もれてしまった。水門の脇には水神の石碑が建つ。
これにより、さらに200m.下流に昭和8年に昭和堰を作り、ここから取水して、1町2か村の、拝島村、昭和村(以上現昭島市)、と立川町(現立川市)に、立川用水として潤している。
昭和用水堰旧水門の一部「一町二箇村用水樋管」が置いてあった。
尚、昭和9年には、山口貯水池(狭山湖)が完成したことから、羽村の取水堰で取り入れた水を導水管で村山貯水池の上湖と山口貯水池にも送っているのと、羽村で取水した水は一端、小作浄水場に送ってから、山口貯水池に送る2系統となっている。
27年だったか、3年生の遠足で山口貯水池に行ったのを思い出した。
旧水門は外され、流入する水は、「立川用水」とか、「立川堀」と呼ばれて今も昭島・立川の地域を流れて今も残る水田を潤し、穂が出始めている。
拝島給水所でも立川用水を利用して、
多摩丘陵幹線のバックアップ機能を有している。