2021年08月16日

今日の東京発展には、故郷を追われた人々が居たことを忘れることはできない。


明治後期、東京における人口の増加傾向は、飲料水の量的不足が予想され、明治44年に、明治政府は研究者の調査により、現日の出町の大久野と現東大和市の村山に貯水池を作る案が提示された。

同45年、工費が安く、工期も短いことから村山貯水池案を決定した。
その頃、多摩川では、明治44年(1911)に「9ケ村用水取水口」の樋菅が構築された。

住民の意向も聞かずに決定され、大正3年(1914)1月10日に、一方的に用地買収が始まったことから、同3年1月20日に160軒程の住民による移転反対の住民大会が行われている。




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参考資料「今はむかし大和村(東大和市)」「多摩湖の歴史(東大和市)

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農業は水田と畑作で、畑では陸稲、大麦、小麦、粟、大豆、小豆、甘藷、ニンジン、ゴボウ、大根、菜、白菜等を、自家用に栽培していた。
養蚕に桑、茶や炭焼きは販売もしていた。

用地買収は「裸山一反三百円(坪一円)、木のある山は反五百円、畑反五〜六百円、田反七〜八百円、宅地反七〜八百円、移転料は大小込みで、家屋坪五〜六十円だった。」価格交渉などしても、結果は東京市の言いなりで、

移転先は、主に貯水池の南側・現東大和市で、「千円で土地を買ったので、儲けどころか財産を減らした。」という。





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大正5年(1916) 6月4日村山貯水池建設地鎮祭が行われた。
当時は重機などなく、つるはしとスコップで築き上げたものだった。

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「移転には別に期限がなかったが、砂利をどんどん持ち込まれたので、気が気でなかった。」
新天地では、家屋や農地づくりが始まったわけで、農家にとって苦節の日々が始まった。

「墓は掘りおこして持っていくように指示された。新しい死人がないのでお骨のない家もあった。うちでは、泥をちよっと持ってきて墓地をこしらえた」

移転先には、まず井戸を掘っている。家を新築する金もないから、住んでいた家を解体して柱などを運び、荷物は毎日リヤカーで運んでいる。生活できるものだけ運んで、蔵は最後に回したという。







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東大和市奈良橋に庚申塚墓地があり、内堀の里から移築された阿弥陀堂の六地蔵尊や、石仏が祀られている。

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「今も忘れ難い内堀の里から、大正五年春 村山貯水池工事のため、やむなく此の奈良橋に居を移し、同八年墓地を求めて墓碑を移転した。」と台座にはめられている。

内堀専司さんには昭和45年にお会いして話を聞いている。

今日の東京発展に、故郷を追われた人々が居たことを忘れてはならない。
posted by 大竹道茂 at 00:00| Comment(1) | TrackBack(0) | 東京の農業と農業者達
この記事へのコメント
>現日の出町の大久野と現東大和市の村山に貯水池を作る案が提示された。

 私は数年前まで日の出町大久野に住んでいました。上の話は落合という平井川と来た大久野川の合流点で今は水道のポンプ場がある少し下流ではないかと想像出来ます。
 日の出町の水源井戸が在りますが、ここは天然の地下ダムだからどんな渇水でも大丈夫だと、先祖代々日の出に住んでいる人から聞きました。
 余談ですが、落合橋から上流を見ると素晴らしい景色です。私は日の出河童橋と自分の中では思っていました。
Posted by 渡邉 徳好 at 2021年08月26日 22:15
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