2021年09月05日

国立のママ下湧水公園脇の佐伯さんの水田を潤している府中用水の取水口を確認した。


家光の時代、江戸の人口が急増する中で、飲料水の不足が
予測される中で、井の頭池や善福寺池などの湧き水を神田上水に、
また、赤坂溜池も上水として供給していた。

四代将軍家綱の時代になって多摩川から取水する計画が立てられ、
庄右衛門、清右衛門の玉川兄弟が請け負った。
しかし、記録では2回の失敗が伝わっている

1回目が、日野(立川付近)への渡しが出るあたりから開削を
始めたようだが、ある程度掘り進めたところで、試しに水を流すと、
その水が地下に吸い込まれてしまう場所にぶつかり
工事を断念するしかなかった。

次に上流の福生に取水口を変更したが、ここでも、
硬い岩盤に当たり、開削を断念せざるを得なかった。

このような失敗があって、さらに上流の羽村の堰から
四谷大木戸まで上水は繋がった。

承応2年(1653)から工事が行われ6ケ月で開通したという。






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ママ下湧水公園脇の水田には、府中用水を使っていると、
生産者の佐伯寛さんに聞いていたので、
国立市青柳の取水口に行ってみた。

日野橋から下流方面に土手を歩いて800mほど来たところ。

上の画像をタップする
このところの連日の雨で水量は多く、取水口は閉められていて、
上流から流れてくる水は、ごうごうと音を立てて
流れは多摩川本流に戻されていた。







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伸び放題の雑草に覆われていたが、
圦樋前改築記念碑(大正5年)が建っていた。

上の画像をタップする
木陰の目立たないところに「府中用水取入口」の説明板があった。
府中用水は、多摩川の水が青柳南部を通り、府中まで導く
農業用水路です。とあり、佐伯さんが使っている用水だ。

いつ、どのように造られたかは、明らかではないと前置きして、

一説には、玉川兄弟が、青柳から府中までの上水路を計画し、
途中まで掘り進んだところ土地の高低差が激しく断念、
後の人がその跡を利用したと伝えられています。とある。

また、昔の多摩川の河床を用水路として利用したとの説もある。

立川には日野への渡船場跡、国立には万願寺渡船場跡があるが、
いずれも対岸の日野への渡し船があった。






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上の画像をタップする
「府中用水取入口」のこの場所は、「緑川排水樋管」となっていた。

昭和18年に旧陸軍立川飛行場(現昭和公園)からの公共下水道として、
排水口が取入口の上に乗るような形で、多摩川に流していた。

ここから石段を下りて右側に行くと、取入口があり
小魚を狙って釣り人たちがいた。




追録

4-1.jpg

府中用水のことを佐伯さんに聞いていたら、
府中用水土地改良区改組50周年記念企画展「府中用水」
〜移りゆく人と水とのかかわり〜、
20年前に出版されたものを、貸してくれた。

府中用水土地改良区改組は、昭和27年8月で、
改組の理由は多摩川の水位低下の対策として、
河床から水を汲み上げるためのポンプ施設建設という
土地改良事業に着手するたで、

当時は、戦後まもなくで食糧増産が盛んに叫ばれた時代だった。

府中用水土地改良区としては50周年記念事業として
水門の改修や写真コンテスト等も実施したようだ。

来年は70周年を迎えることになる。

posted by 大竹道茂 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 農のある景観と環境
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