江戸東京野菜 復活のバイブル「江戸・東京ゆかりの野菜と花」の出版に当たっては、一代雑種の作物が普及する以前の作物の栽培指導をされていた、元東京都農業試験場場長や、元農業改良普及所長など関係者に編集委員としてご参加いただいた。
委員の先生方とは、その後10数年は情報交換をしていたが、今年で30年となると、委員の先生方の多くは鬼籍に入られている。
昨年、委員のおひとり、大学の大先輩でもある大城芳彦さんに電話をしたことで、亀戸大根の資料や「南葛飾郡農会史」の資料を使うならと送って頂いたので、福分けまつりの事を書いた。
先日、大城さんから電話を頂いた。
今度、岩槻の方の施設に入ることにしたという。94歳のはずだか、お元気なのは声でわかる。
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身の回りを整理していたら、同期の福井功さんが、2002年(平成14)10月に自費出版した「江戸東京の野菜図説」が出てきた。特に「つま物」は詳細に書いているから、ブログで紹介すれば福井さんの功徳になるからと、送って頂いた。
ご自分で打って作成したようだ。
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内容は、今後様子を見ながら、紹介していくが、
今回は「はじめに」と「おわりに」を紹介する。
追伸
「はじめに」に、江戸東京の間に「・」を入れないということを述べているが、これは委員としてご参加いただいた「江戸・東京ゆかりの野菜と花」に、「・」が入っていたことへのお考えで、題名の決定では特に論議なく決まってしまったが、ご意見があったようだ。
安政生まれの亡祖母の話として、江戸の庶民の生活や作られた野菜は区切りが有るわけでなく、1868年(明治元年)に東京になったが、江戸の生活は日露戦争(1904〜05)の頃までの30数年は、殆ど江戸時代と暮らしは変わらなかったと回顧していたという。納得です。
また、「伊豆七島」は明治11年(1878)静岡県から移管され、「小笠原諸島」は明治13年(1880)に内務省から移管され、「明治26年(1893)に移管された西・北・南の3多摩地方・・・・」は、神奈川県から移管されている。
「おわりに」では、福井さんが育ったところは神田川の「面影橋」の近く「砂利場村」とあるが、早稲田ミョウガを探して、近くを歩いたことがある。
福井さんが農業指導をした地域に、「新宿」があるが、当時は西落合の地域には、農地が残っていた。それ以外、中野、杉並、世田谷、目黒、大田、練馬、板橋、北、江戸川、葛飾、足立の11区には農地法上の農地が今も残っているが、北区は1か所になってしまった。