澤乃井の食事処「豆らく」で食事をした時に、
大先輩の福島和夫さんにお話を伺った。
かつて、青梅の沢井を含む三田領では
「三田の梅」が有名だったと云う。
青梅の金剛寺にある梅樹は平将門が挿したもので、その実が常に青く
落ちることが無かったから、とか「大梅」が転訛したものと
「新編武蔵風土記」にあり、記録には室町の頃から、
武州多摩郡青梅村が掲載されていると云う。
梅は日向和田で下車して多摩川を渡ったあたりが青梅市梅郷で、
吉野梅郷梅の公園があり、梅郷地区は「親木の梅」「宝珠梅」
「岩割りの梅」等の銘木があった。
しかし、2009年に青梅市内で「ウメ輪紋ウイルス」が発見され、
市内全域で約4万本もの梅樹等が伐採されたが、10数年を経過し、
今は感染割合が大きく低下したことから復活が始まっている。
食後に、近くに古木があるからと、福島さんに
案内して頂いたのが福島家住宅。
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福島家は、江戸初期から多摩郡沢井村下分の名主を代々務めた
お宅で、江戸中期から幕末にかけては三田領42ケ村筏師組合の
惣代に就任して地域社会のリーダーの立場を確立した。
福島さんのお祖父さんも、筏師をされていた。
江戸は火災が多く、青梅の山の木材の需要が多く、三田領から
木材として筏に組んで多摩川を六郷まで運んだ。
三田地区の梅のルーツに筏乗りが
三田地区で良い梅の実が採れる理由の一つに挙げられるのが、
「筏乗り」にあると聞くと驚かれる方も多いと思います。
当地の地場産業で発展の原動力となったのは林業で、
特に大消費地である江戸から東京へと時代は変わっても、
出荷する木材は「青梅材」として高い評価を受けていました。
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特に、交通機関が未発達の頃は、輸送路として多摩川が
果たした役割は大きく、その木材を運んだのが筏乗りでした。
福島さんの資料には「筏乗夫名簿」(明治二〇年・三田領筏師会所編)
には、三田地区で一五七名もの」筏乗りが登録されていて、
他の地域より圧倒的に多かった。とある。
筏は多摩川を六郷(大田区)まで流すが、筏師は、愛用の長い竿を
担いで、六郷から青梅までを「筏道」を通って帰ってきました。
三田領の日向和田に、青梅鉄道として鉄道が敷かれたのは、
明治28年(1895)で、コンクリートに使うのに採掘した石灰を
運ぶためで、その後、大正9年(1920)には二俣尾まで伸びた。
1929年(昭和4年)青梅電気鉄道となり、
木材の運搬は筏から鉄道に変わった。
小向の梅
六郷の対岸の川崎の小向村(川崎市幸町)にあった、大きな梅林。
筏乗りが帰りに、良い実のなる苗木を持ち帰ったと思われます。
三田地区にも吉野地区にも「小向」と名のついた梅の木が
沢山ありますが、このような由来によるものです。
福島家には「鎌倉豊後」と呼ばれる梅の古木があると云うので、
古木まで連れて行ってもらった。
福島さんは何十年振りに来たと云っていたが、
「ウメ輪紋ウイルス」の感染はなかったが、枝ぶりが
小さくなってしまったとのこと。
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この「鎌倉豊後」は、鎌倉時代に九州の外敵防御に徴兵された
武士防人(ぶしさきもり)が、豊後(大分県)から種を
持ち帰ったものと云われている。
鎌倉から秩父への鎌倉街道山ノ道があり、その中間域が
青梅だったことから、この説が生まれていると云う。
秩父から発した鎌倉街道山ノ道は、幕府が置かれた鎌倉まで
縦断し、青梅はその中間域になる。
柚子畑の整備をされていた原島正巳さんの柚子畑の隣は、
梅の畑があったが、各地に残っている。






