2024年07月13日

「井草地域区民センター協議会」の岸上優さんにお招き頂いて井草の昔話を話してきた。


先日、荻窪の八幡様に行ったことは報告したが、

杉並の方から、最近依頼されたのは、昨年6月に阿佐ヶ谷の
「あさ北きずなサロン」、今年2月には杉並区荻窪保健センターで
荻窪・上井草健康づくり自主グル―プ」に伺った。、

今回主催の「井草地域区民センター協議会」の岸上優さんも聞きに
来てくれて、良かったので企画したという。



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この日も暑い日で、井草地域区民センターの前にある公園には、
水遊びができるように水が流れていた。
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会場の井草地域区民センターは、西武新宿線の井荻駅下車で
10分ほど歩いた所にあった。
平日と云う事もあり、広い会場だったが゛ご年配の方が30人程。

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会場には井草地域区民センター協議会広報部の色部 一哉さんが
取材に来られていて、同館の広報誌に掲載頂けると云う。





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自己紹介では、高円寺の演芸祭り「うおこう寄席」で
江戸東京野菜の説明を行なっている。
新型コロナで、しばらく行っていなかったが、今年は駅近くの
ホールで実施している。





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江戸東京野菜ではないが、会場のある井草の話題として、
「姿を消した井草の藍」について紹介した。
皆さん「藍栽培」は、初めて聞く話だったようだ。

明治初期の頃、東京府東多摩郡の高円寺村を始め周辺
各村の有力者は競って、藍玉の集荷問屋や紺屋を開業しました。
紺屋は春のうちに農家へ藍草代金を先払いして、原料を確保する
習慣で、藍は投機性の強いものだった。

明治27年の日清、日露戦争の10年間は軍用品の染色が大変景気良く、
紺屋は30戸にも増えていた。
しかし、明治38年ドイツから安い科学染料が輸入されたために、
価格は大暴落で、土地や屋敷を失う紺屋が続出した。

大正3年には、第一次世界大戦があり、ドイツからの輸入が
途絶えたので、藍玉は暴騰し、藍成金が生まれた。

まもなく日本でも化学染料が生産されるようになり、紺屋の
関係者は莫大な損失により、没落してしまい、

これれにより「井草の藍」は、姿を消してしまった。





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江戸東京野菜では、高井戸八幡宮に農業説明板のある、
高井戸節成キュウリは、成田西ふれあい農業公園で栽培している。

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井草八幡神社は、井荻ウドの説明板が
建立されている。

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井荻ウドとか吉祥寺ウドなどは、今日では立川方面に産地は移ったが
区内の練馬にもあり、アナグラで栽培する意味を紹介した。






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今回招いていただいた岸上優さんとスタッフ田中穂波さん。

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会場で質問してくれた能村さんが写真を撮ってくれたが、近くに
幼稚園の畑があり、お母さん方が栽培していると云うので
案内してもらったが、後日紹介する。
posted by 大竹道茂 at 08:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 食育・食農・講演会等
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