2025年07月26日

高木新太郎先生(寺島玉の井まちおこし委員会)が記録した資料から見えてくる寺島ナスの歴史。


先日、寺島・玉ノ井まちづくり協議会が開催した「”寺島ナス”の夕べ」は、両国レガードで開催されたが“寺島なす” のイタリアン
フルコースを頂いた。

江戸東京の農業説明板「寺島ナス」は、平成9年に墨田区東向島の
白鬚神社境内に建立させていただきました。

今日、この地域は東向島となり、明治12年に開校した第一寺島小学校、
大正13年に開校した第二寺島小、昭和になって開校した第三寺島小と
寺島中学にしか、寺島の名は残っていない。

そこで、寺島の名のついたナスがあるのなら栽培してみたい、食べて
みたいとの反応が寄せられ、第一寺島小学校の130周年記念(平成21年)
に復活栽培をすることができた。
一寺小の開校した頃、親の世代は寺島ナスを栽培していた。

寺島・玉の井まちおこし委員会」は平成24年になって取り組む。



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高木新太郎先生(寺島玉の井まちおこし委員会)が
記録した資料を頂いた。

寺島・玉ノ井、寺島なすと歴史散歩地図
寺島・玉の井地区は、江戸時代、寺島ナスの生産地として知られて
いました。向島百花園が創設されたのもこの時代です。
明治〜大正時代は文人等の住まいや行楽地で、日活向島撮影所も
近くにある一方、荒川放水路が着工、隅田川沿いに工場が多く建設され
工業化が進みました。昭和時代になると、関東大震災(1923年)後の
人口流入と宅地化が進み、街が一変しました。

この時代の玉の井地区は永井荷風『濹東綺譚』、滝田ゆう『寺島町奇譚』
などの舞台として知られています。
葛飾郡から東京市への編入など制度的変化も明らかになり、
この地域の歴史が見えてきます。
                                                     監修:高木新太郎(寺島玉の井まちおこし委員会)

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寺島の名の起り蓮華寺は、鎌倉市佐助から移ってきたもの、
鎌倉時代の、弘長元年(西暦1261年)で、明治後期の44年になると
人々が住み始め、字(あざ)地が増えている。

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地図上部の橙色の半丸は廣重の「名所江戸百景 木母寺内川御前栽畑」
内川と呼ばれていたのは、左の先で止まっていて入江になっている。
御前栽畑は四代将軍家綱の畑で、各種野菜が栽培されていて、
寺島ナスもこの農園から伝わったとも言われている。

この地は、これまで東京都が所有して空き地になっていたので、
寺島・玉ノ井まちづくり協議会の牛久光次理事長は、墨田区を通して、
「都民農園墨田」を作ろうと皆さんで活動していた。

その後、御前栽畑跡地は、墨田区が東京都から買い上げ、変わりに
東向島の墨田区立公園用地を東京都に払い下げ、墨田区のために
活用される予定だとか、

寺島・玉ノ井まちづくり協議会では、木母寺側の一角に
「江戸東京野菜の展示栽培用地にして」、レクリエーション農園に
活用しつつ、ほかの区との交流に役立てる。
もしもの時、本来の防災の都内連携につながるように区の方に
働き掛けて行くと、聞いている。


江戸時代 正保年中改定圖【1644〜48年頃】
『新編武蔵風土記稿』(1826年)より
「明暦の大火」(1657年)以前の重要な地図である。この図では
武蔵国(豊島郡、足立郡)と下総国(寺島村、本所村等の郷村)が河で
区分されているが、これは古い時代の国区分のようだ。
天正19年(1591年)の「金町村香取社領御朱印」の文には金町郷が
武蔵国と記されているので、当時は既に国界が変わっていたかも
知れない。隅田川は当時、豊島郡までは「浅草川」と呼ばれており、
足立郡のところで西から入間川(荒川の異名)が入り込んでいた。
また「正保改ノ国図ニ足立葛飾両群ノ堺ヲ流ルル古利根川ノ分派アリ
是今ノ古隅田川ノ筋ナリ」とある。

古隅田川は、新編武蔵風土記稿の時代には水脈が絶えて、「小菅村柳原村
辺ニノミ水流残レリ」の状態だった。地図右手に「海辺新田」の地名が
見える。「小名木川」(現「江東区海辺」の北側)辺りが、一つの海岸線
であったようだ。旧向島区の郷村は、須田、寺島、木下川、葛西川、
小村井と思われるが、同図では須田村の近くに「角田川御殿」の名が
見える。本所地区の郷村は、小梅、洲崎、請地、中ノ江、柳島、押上、
本所となっている。


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