名残を探しに御徒町から都営大江戸線で次の本郷三丁目で下車した。
講座で、江戸東京野菜を紹介するのに朱引きの地図で紹介するが
江戸の境と云われた所を紹介するのに行ったもの。
朱引きは文政元年(1818)に江戸幕府が定めた江戸の範囲で、墨引きは
町奉行の管轄範囲となっていて、この地図には、本郷は見当たらない。
当時の川柳に言い伝えられていた江戸の範囲がある。
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かねやすビルがそれで、本郷三丁目の交差点の角に在るが、
かねやすビルは本郷二丁目なる。
かねやすビルの一階は、「丹波やながわ」で丹波の黒豆を販売して
いるが、創業は明治25年とあり、江戸時代はこの地で兼康祐悦という
口中医師(歯科医)が、乳香散という歯磨粉を売り出して大変評判に
なり、客が多数集まり祭りのように賑わった。(御府内備考による)
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ビルの一階に川柳が掲載されていた。
「本郷も かねやすまでは 江戸の内」
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「かねやす 本郷2-40-11
享保15年大火があり、防災上から町奉行(大岡越前守)は三丁目から江
戸城にかけての家は塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺を禁じ瓦で
葺くことを許した。江戸の町並みは本郷まで瓦葺が続き、それから
中仙(中山)道は板や茅葺の家が続いた。その境目の大きな土蔵のある
「かねやす」は目だっていた。
「本郷も かねやす までは江戸のうち」と
古川柳にも歌われた由縁であろう。と文京区教育委員会が
昭和61年に設置している。
享保15年(1730)と云うと朱引きが決まる前だから江戸は
まだ狭かったが、以後江戸は拡大していき朱引きとなる。
江戸城を例にとると、1657年(明暦3年)の 振袖火事では、天守閣を
始めとする各御殿を焼失しているが、
延享4年(1747年)二の丸御殿焼失し、弘化元年(1844) 本丸御殿や
大奥を焼失し、以後何度も大火に見舞われている。
追伸
農大の同期会は御徒町駅前の吉池食堂で
今日は楽しい会食ができて有意義なひとときでした。
柴田さん、集合写真を送ってて頂き、ありがとうございました。
坪井さんの研究報告、具体例を挙げられたので良くわかりました。
来日したパラガイの横田君の奥様と息子さんも参加され良かった。
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