し、日本の気候風土に適して、増産出来そうな品種の改良が行われていた。

提供・進藤進コレクション
当時、どんなタネが品種改良されていたのか、明治41年の日本種苗株式会社の営業案内(種苗カタログ)を調べていたが、一頁を開いた所に、絵入りで会社の全景が紹介されていたので、興味は別の方に移ってしまった。

当時の、営業案内には野菜の絵や、品種説明、価格が載っていた。
会社の口座にタネの代金が入金されると、指定のタネを郵送すると云うもので、すでに通信販売が行われていた。
日本種苗株式会社の所在地が「内藤新宿舊(きゅう)停車場際」とあるのに興味がわいた。ビルが林立する新宿の何処にあったんだろう。
新宿歴史博物館(新宿区三栄町)の担当官に聞いてみると、昔の新宿駅は人通りの多い甲州街道側、今の新宿駅南口(赤丸)が改札口で、東口、西口は無かったという。
それでは、「東京内藤新宿舊(きゅう)停車場際」とは、新宿三丁目あたりかと、想像をめぐらしたが、分からないと云うことで、メールでその絵を送った。
同館の担当官は、送った絵を「見たことがある」と探してくれたようで、しばらくして、FAXをくれた。
平成10年発行の新宿区史第一巻、「第一章 産業構造の近代化と新宿」に同じ絵が掲載されていた。

それには、地図も掲載されていて、「・・停車場際」とはあるものの、何と現在の西武新宿駅を含め歌舞伎町の西側(緑丸)に見本園が広がっていた。
当時、内藤新宿には農事試験場があり、フランスの農業技術を導入していたから、野菜などの品種もフランス産が多かった。
明治後期には、内藤新宿農事試験場種苗部 東京三田育種場種苗部などが新品種を売り出し、内藤新宿には、大小のタネ屋が集まっていた。
江戸からある、巣鴨のタネ屋街道とは発生が違う。
この会社、耕牧園(園主・井上龍太郎)として、明治21年頃に設立されて、品種改良により収穫増収の優良な品種を生産者に提供していくとしている。
明治40年に「日本種苗株式会社」になるが、その後、米国農学士を採用しアメリカの農業技術も導入していく。
因みに、地図にある、字十人町には大正時代、府立第五高等女学校が建てられた。
また、歌舞伎町は、戦後に付けられた町名で、それまでの角筈1丁目と東大久保3丁目の一部だったが、
昭和20年代に、かつてのコマ劇場の場所に、歌舞伎劇場を建設する計画があったことから昭和23年に付けられた。
実は自宅の土蔵を掃除していて明治44年2月24日付けの萬朝報という新聞が見つかりました(3・4頁のみ)。その4頁に日本種苗鰍フ広告が載っており、検索したところそちらのホームページに記述がありましたので、興味を引かれメール致しました。当時の通信販売の広告のようです。何かの参考になるのでしたらコピーなりスキャンデータなり差し上げます。
また遊びにきます。
ありがとうございます。