
向田邦子さんの随筆「父の詫び状」(文春文庫)の中に「昔カレー」と云うのがあるが、それをもじって「今カレー」。
ラジオのこのコーナーは冒頭、朗読から入る。
「いままでに随分いろいろなカレーを食べた。目黒の油面小学校の、校門の横にあったパン屋で、母にかくれて食べたカレーパン。 出版社に就職して・・・」(昔カレーより)
だいぶ前だったが、この番組で母校「目黒の油面小学校」の校名を懐かしく聞いたものだが、朗読が好きで先週の日曜日も聞いたばかりだった。
向田さんは、ラジオ・テレビで活躍された人気作家。
「だいこんの花」「寺内貫太郎一家」等の代表作があるが、昭和56年の夏に台湾だったか航空機事故で急逝された。
校門は昔のままだが、当然校舎(写真上)は建て替わり、校門横(写真右)には民家が建っていた。
懐かしい油面
先日、何年振りかでクラス会が開かれ、遠く九州から出席してくれた友もいた。
我われの頃は6年間クラス替えがなかったから、友達との思い出はいっぱいある。
今でも目黒に住んでいるクラスメートが苦労して企画をしてくれて、今回は、油面小学校に集合した。

四つ角にお地蔵さまがありその向こうがパン屋さん(写真右)
我々は、各々の思い出を探しながら皆でゾロゾロ。
学校から、通学路、遊んだ空き地など、周辺を歩き回ったが、向田さんが書いた、「校門の横にあったパン屋・・・」の話を皆にしてみたが、誰もパン屋の記憶はなかった。
向田さんは、昭和4年生まれだから14〜15歳年上で、我われの時代には店は移転してしまったのか・・・、
向田さんの記憶違いとは思わないが、校門から50メートルぐらい離れた油面子育地蔵尊の隣りが昔からあるパン屋で、そこのパン屋なら、私も子供のころカレーパンを食べたことがあった。

向田さんは目黒に住んでいたが小学校の3年生の時に、父親の転勤で、鹿児島に転居し、それから四国に移り、女学校は高松県立第一高女に入学し、一学期の終わりには、再び、目黒に戻り目黒高女の編入試験を受けている。
向田さんは祐天寺のそば、中目黒に住んでいたようで、戦争中に目黒競馬場の跡地(空き地)に逃げたことなどが、他の随筆(父の詫び状)に出てくる。
「油面」
油面の名の起こりだが、江戸時代中期、この辺り一帯は菜種の栽培が盛んであったと云う。
絞った菜種油は芝の増上寺や、地元祐天寺の灯明用として使われ、この油を奉納していたことから、搾油に伴う租税が免除されていた。
税が免ぜられている村、「油免」が「油面」に変化したものと云われている。
菜種の栽培は昭和の初めごろまで行われていたと伝えられている。
油面小学校は、大正14年に開校したが、当時は、菜の花畑と竹やぶ、雑木林に囲まれた、畑の中の学校だったという。
丁度、関東大震災(大正12年9月発生) によって、下町が大きな被害を受けた後で、
その後、被災者の住宅用地として目黒は開発が進んで、人口が増加した時代を校歌は反映している。
「ひろがる都、街も新た、目黒は開け、日に日に進む・・・・」
我々が、5年生だったか6年生だったかに、開校30周年の記念式があったのを覚えている。

そして、私が遊びまわったのが競馬場跡から近い、目黒不動尊の境内。
昔は山門前で「タケノコ飯」を食べさせた店が並び、「目黒のタケノコ」は有名になった。
境内の裏には、甘藷先生の青木昆陽の墓もある等、江戸からの歴史があちこちにある。
そんな目黒の思い出が、私のベースになっている。