今回のスタディは、新宿御苑にお勤めの本荘暁子さんにお願いした。
本荘さんとは、2009年1月に新宿御苑で『福羽逸人とともにたどる新宿御苑の歴史展』が開催されたときに
江戸東京野菜を展示したいのでと、協力を依頼されたのが初めてお会いした時だった。
新宿御苑は、天正18年・徳川家康の家臣・三河の内藤清成が広大な屋敷地を賜ったことに始まり、元禄4年には7代・清枚が信州高遠藩主になった。
元禄11年には、内藤家の屋敷一体が甲州街道の起点となる新しい宿場町の「内藤新宿」が生まれた。
この時代に、内藤トウガラシ、内藤カボチャなど、当時のブランド野菜が生まれている。
明治になると内藤新宿農事試験場となり、近代日本の農業を誘導していく施策が生まれ、外国からの新品種の導入なども活発に行われている。
そして新宿植物御苑、明治後期になると皇室庭園・パレスガーデン。戦後は国民公園として一般に開放されている。

本荘さんは「福羽逸人の偉業でたどる 皇室庭園「新宿御苑」の歴史」のパワーポイントで、興味深い゛お話をしていただいた。
以下、本荘さんのお話を要約したもの(文責大竹)
福羽逸人は、内藤新宿農事試験場に勤め、その後、新宿御苑の発展に貢献したばかりか、日本の園芸界にも大きな影響を与えた人物であった。
しかし、新宿御苑では、昭和20年の空襲で福羽関係の資料の多くは焼失してしまっていた。
御苑や関係者の間では、福羽逸人の親族の消息は誰も知る者がいなかった。

2004年、本荘さんが新宿御苑のビジターセンターの窓口にいる時に、年配の夫婦が来られ、夫人が館内に掲示されていた福羽逸人の写真を見ながら、「あなた、おじい様にそっくりネ!」と同伴の紳士に話しかけられた。
その会話を耳にした本荘さん、もしかしてと、二人の後を追い、御苑の職員だと前置きしてから、福羽卿のお身内かと訪ねると、何と、福羽逸人の孫・永芳氏とその夫人だったと言う。
その後、平塚から東京に出てくると御苑に立ち寄るなど親交が始まったとか。
そんな頃、福羽逸人の、「回顧録」が神田の古書店で売りに出されたと言う噂が本荘さんの耳に入って来た。
本荘さんは「回顧録」があるのかどうかを尋ねると、夫人はお父さん(発三氏)から預かったものがあるとして調べてもらうと、桐の箱に収まった回顧録が出てきたという。
出会いから二ヶ月後の事だった。
その後、福羽家の了解も得て、本荘さんが編纂・デザインを担当して、2006年の新宿御苑開園100年の記念事業として「回顧録」を出版することとなった。
本荘さんは、同書の「あとがき」に、「青山墓地の墓前に報告した夏、墓標にかかる木々の影が、うなずくように大きく上下に揺れたことを思い出す。」
福羽は、明治維新後の激動の時代、「良い国をつくるには、心を和らげるような庭を造ることが一番だ」と思っている。
一本の木や一つの花によって日本も変わり、世界も変わるという思いが、今でも御苑の思想として根底に流れている。

内藤新宿農事試験場として明治40年代にすでにタネ等、外国から輸入した品種を改良するなどして通販のカタログを春と秋に出ている。
また、この回顧録を読んだ東北大学大学院教授の金浜耕基氏が、これまでの大学で学ぶ「園芸学」には農業や園芸の歴史が全く触れられていなかったことから、福羽の回顧録をベースにした構想を打ち出して、金浜耕基編の「園芸学」が文永堂出版から2009年4月に出版された。
表紙には、福羽逸人ゆかりの、福羽イチゴ、温室メロン(アールス・フェボリット)と温室ブドウ(マスカット・オブ・アレキサンドリア)、そして洋らん(セロジネ・メモリア・フクバ”シンジュク” )が、裏表紙には新宿御苑のフランス式整形庭園がデザインされた。
本荘さんと言うと、福羽逸人の研究では第一人者だが、
ビジターセンターの窓口で、とっさの判断で二人を追ったことが新宿御苑の歴史で欠落してしまった穴を埋め、さらに記念すべき100年を「福羽逸人回顧録 財団法人国民公園協会 新宿御苑刊」の発刊という意義ある年にした、本荘さんの仕事に対する姿勢には、改めて感銘を受けた。
カフェに続く