仙台の伝統野菜の普及に尽力されている、轄。庄青果の庄子泰浩専務にお会いしてきた。
庄子専務とは3年前に、農業共済新聞の田澤宏志記者から仙台にも伝統野菜に一生懸命な八百屋さんがいると、紹介してもらってからのメル友だが、色々資料を送ってもらったり、仙台の伝統野菜を送ってもらったりしていた。
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東北新幹線の仙台駅前広場から通りを一本入ったところに、露地を挟むように東四市場があり、青果店が軒を並べ客でごった返していた。
店先には宮城県産の野菜が並んでいるが、仙台伝統野菜の「仙台曲がりネギ」も見える。
私が仙台野菜に注目したのは、「仙台芭蕉菜」だ。
今年の2月に荒川区の栄養士に荒川区の土地の名前が付いた野菜を探して欲しいと依頼されていたからだ。
今庄青果のホームページに掲載されていた仙台芭蕉菜の説明に「・・文献には別名で、三河島菜と記されており。」とあり、明治時代に書かれた仙台の文献に書いてあるという。
江戸の野菜は、日本全国から江戸に持ってこられたものが多く、江戸で栽培され、江戸で品種改良がおこなわれ、再び各地に広がった。
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三河島菜も江戸末期には、江戸土産としてタネ屋街道でタネが販売されていたことは記録に残っている。
当時、漬菜と言えば、今日の白菜と同じように江戸市民が好んで食べていた。
東京都農林総合研究センターに、残っている細密画の「三河島菜」は、白茎で白菜にも似ているが、結球しないのが特徴である。

絵をクリックすると都農林総合研究センターのホームページにリンクします。
前掲の通り、仙台芭蕉菜は青茎で、白茎とは形状が大きく異なり、異なる品種かと思ってしまうが、
明治40年代の通販カタログを見ると、青茎三河島菜と白茎三河島菜の二種類があることがわかる。
白茎は、「強壮、発育、頗る良好なり、然りして本種は在来の青茎より変生せしもの頗る早生にして・・」とある。
このことから、在来種の青茎が仙台に伝わったのは理解できる。
この三河島菜、中国から白菜が導入されると、漬菜は栽培しやすい白菜にとって代わられ、
その後、三河島菜は、青茎、白茎共に東京では栽培する者もいなくなり、絶滅してしまった。
しかし、仙台に青茎の三河島菜の血を受け継ぐ、野菜が存在していたのだ。
庄子専務の話だと、放っておくとかなり大きくなるようで、現在、小平の宮寺光政さんに、「野口のたね」で購入した仙台芭蕉菜を蒔いてもらっていて、三河島菜がどのようなものだったのか調べようと思っている。
仙台朝市商店街振興組合・副理事長の肩書をもつ庄子専務は、伝統野菜の取り組みに対するご苦労を色々と伺った。
今では、宮城県仙台農業改良普及センターも加わり、「仙台野菜ブランド化推進協議会」も立ちあがって、普及推進も軌道に乗ってきたようだ。
庄子専務の取り組みに対する情熱のほとばしりは、止まるところを知らない。
時を忘れて話し込んでしまった。

話の合間にお茶受けに出た、仙台キュウリに大葉とミョウガを刻んだ浅漬けと、土垂(ドダレ)と呼ばれるサトイモのもてなしが美味しかった。
庄子専務さん、ありがとうございました。