小名木川と中川とが交差するこの地に「中川口船番所」が、寛文元年(1661)に設けられた。
そもそも小名木川は、徳川家康が江戸に居城をおくにあたって、行徳の塩を江戸に運ぶために隅田川と中川を結ぶ運河を開削した。
中川船番所は江戸と関東各地を結ぶ河川に設けられた関所の一つで。
クリックすると隅田川に注ぐ小名木川には万年橋がかかり、橋の北側に正保4年(1647)、川船番所が設けられていた。隅田川に架かるのは清洲橋。
これら番所では、「入り鉄砲に出女」を取り締まっていた。
その後、明暦の大火、いわゆる振袖火事で江戸市中が類焼したことや、小名木川流域の宅地化などから、寛文元年(1661)に中川と小名木川が合流するこの地に移して、「中川船番所」とした。
当時、銚子から関宿、そして江戸川を下って、新川から小名木川を経由して、江戸へ物資を輸送していた。

それまで、房総を回って江戸前の海に向かうルートだったが、銚子から利根川を遡上する内陸ルートが出来たことから、江戸幕府は河川を利用して江戸に鉄砲などの他、武器、武具等が持ち込まれないよう、また、参勤交代制度の下で大名家の婦女が江戸から逃げ出さないように見張ることも、番所の役目だった。
近隣地域の、葛西の農産物は、中川や新川からこの番所の検問を受けて、小名木川を通って江戸の神田市場や京橋の大根河岸に農産物を運んだ。
朝一番のセリに間に合わせるには、冬場の農産物は、早朝未明にこの地を通過するが、鑑札を受けた船が、農産物を満載して、このコースをたどった。
江戸名所図会には、3艙の乗合船が描かれているが、小名木川から新川に向かうルートは、成田山詣の舟などで賑わうようになり、江戸の幹線水路の一つでもあった。
江戸名所図会をクリックすると、旧中川のほとりに、中川船番所資料館があり、興味深い資料が展示されていた。
地図をみると、江戸川につながる対岸は堰き止められて小高い丘になっていた。
荒川が隅田川に名を変える岩淵辺りから下流域で大雨による氾濫が起こり、江戸の下町が洪水に見舞われることが度々。
明治44年に荒川放水路(現荒川)を岩淵水門から下流域へ改修工事が始まり、多くの農地をつぶし、農家をどけながら昭和5年、20数年を要して竣工したが、これにより大きく蛇行しながら流れていた中川は分断されてしまった。
左から右に中川が流れ、手前から小名木川が中川に合流し、新川(船堀川)につながり、行徳へと向かうことになる。
重量物の運送は舟運に頼っていた時代、大量の農産物や、塩、米、醤油などを運ぶ流路として、盛んに利用されていた。

対岸に渡って丘に登ってみると、閘門が一機、上部だけが記念の建造物として残してある。
中川と小名木川が合流した後、新川を通って荒川放水路につながったが、水位差があり船の通行に障害がおこり、それを防ぐために当時としては近代的な2機の閘門が構築され、閘門内で水位調整を行って船を航行させていた。
対岸の丘の上、そこだけ木が植栽されていない所に閘門の一部が見える。

都営新宿線の東大島駅の長いホームは、旧中川をまたぐ橋上駅だ。
荒川で分断されたことで取り残されてしまった旧中川の川面は穏やかだった。