早朝、東京の東部では雪が舞う寒さの中、荒川区立第七峡田小学校の吉野一平校長が、「里帰りした三河島菜」を訪ねてきた。
先週の土曜日、土曜ワイドラジオ東京(TBS )「永六輔その新世界」で、リポーターの柳沢怜さんが小平の宮寺光政さんの畑から「里帰りした三河島菜」について生中継をしてくれた。
数日して、リポーターの柳沢怜さんからメールが入った。
「放送を聴いた、荒川区の小学校の校長先生から番組宛に三河島菜について詳しいお話を聞きたいというお電話がありました。
大竹様に直接お取り次ぎをしたいのですが、研究会のご連絡先を教えていただけますでしょうか?」というもの。
伝えてくれたのだろう、その後吉野校長先生から電話をいただいた。

何でも、同校PTAの副会長さんが同番組を聞いていたことから、「三河島菜が栽培されていたと云う話をラジオでしていた・・」というFAXが校長先生に入り、後日電話で、その内容が伝えられたと云うことで、電話をいただいた。
かつて、北豊島郡三河島村字峡田(ハケダ)地区は、江戸時代には上野の山の峡(ハケ)から湧水が辺りの水田を潤していた地域で、三河島菜の栽培も盛んな地域であった。
この地域は、明治末期から始まった都市化の進展で小学校が次々に開校し一時は9校までになったが、現在は統廃合されて、峡田小学校、第二峡田小学校、第三峡田小学校、第四峡田小学校、第五峡田小学校、第七峡田小学校、第九峡田小学校の7校となっている。
JA東京中央会が平成14年に発行した「江戸・東京 農業名所めぐり」(農文協)の「三河島菜と枝豆」に書いたが、
10年ほど前、第七峡田小学校では「七峡小探偵団」として、峡田地域の7校の校章にデザインされた植物が、三河島菜ではないかとの「しらべ学習」を展開した。
子どもたちは、地域で農業をしていた人や八百屋のおばさんに聞き、図書館で調べ、東京都農林総合研究センターに行って、保存されていた三河島菜の細密画を見て確かめるなど、活発な調査を行ったが、このことは新聞などでも報道され、話題となったことがあった。
そんなことで、七峡小のOB達は、「・・・・三河島菜」の名に反応され、吉野校長がたずねて来られたわけだ。

吉野校長は、初めて見る「里帰りした三河島菜」を、眺めたりかじったりしていたが、今後栄養士の先生とも相談しながら、今年はぜひとも同校で栽培したい。花も子どもたちに見せたいとの意向を話してくれた。
三河島菜は、三河島が都市化していく中で、菜の産地は尾久方面に移って行ったことから、尾久の小学校からも栽培したいとの話があり、これで、峡田、尾久、日暮里地区の5校の関係者からは栽培したいとの意向を伝え聞いている。
三河島菜を検索したら 「GO GOヘリオス 輪行録」に、平成9年にJA東京グループが三河島稲荷神社に設置した説明板が掲載され、辺りの雰囲気が伝わってくる。
今度、お稲荷様に、お礼参りに行かなくては。