寺島ナスの取り持つ縁で、都立向島百花園「茶亭さはら」の佐原滋元先生と親しくさせていただいているが、郷土史家としても造詣が深く、寺島のことを色々と教えていただいた。
「せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ すずな すずしろ これぞ ななくさ」とかな文字で書かれた札が吊るされた趣のある籠、百花園の七草籠を佐原先生からいただいていた。
立春も過ぎ、十分に楽しんだので、旧暦の七草(2月9日)に、七草粥を作って朝食にいただいた。
「百花園では、開祖鞠塢の頃より、春の七草を柄付きの籠に植え付け、年末のご挨拶に持参し、正月の飾りとしていただきました。
まさに「七草籠」の元祖といえます。」
と佐原鞠塢(さはらきくう)から数えて8代目の佐原先生からいただいた資料にある。
百花園は鞠塢が文化元年(1804)に開いた。化政期は町人芸術が爛熟の極に達した時代だ。
江戸の文人墨客が隅田川を渡って田園地帯にできた百花園で俳句や陶芸等を楽しむ、癒しの場所であった。
「この柄付きの籠は、例えば、法界坊の「葱(しのぶ)売り」に登場するように、向島から江戸の町に野菜を売りにゆく時に使われていたものを利用したものです。」
歌舞伎の出し物「法界坊」の中で出てくるこの龍が七草籠にそっくりなのには驚く。
本来の野菜籠を歌舞伎の舞台では「葱売り」を象徴する小道具の一つとしてデフォルメ、舞台上での役者とのバランスから愛らしい籠にして使っている。
百花園では、その籠をお正月の間、若菜を楽しみ、七草にはいただくと云う行事に結び付けたようで、野菜が少ない江戸の正月に彩りを添えた江戸粋人達の知恵をそこに見ることができる。

この籠植えだか、
「底に土がこぼれないように、葉蘭を敷き詰め、七草を植え付けます。
明治になり、ご挨拶に伺う馴染みのお客様も変わってまいりましたが、旧摂家、公爵の九條様もそのお一人でした。
明治三十三年、九條家から節子(さだこ)お嬢様が後の大正天皇へ嫁がれ、それをご縁として、現在でも百花園から宮中へ「七草籠」が献上されております。」とある。
錦糸町で牧場を営んでいた詩人で小説家の伊藤左千夫が、病床にあった正岡子規へのお見舞いに「七草籠」を贈ったが、
病人に「ほとけのざ」では縁起が悪いからと「かめのざ」と書き換えたというエピソードも添えてある。
「皇室と七草粥」については佐原先生のご母堂洋子様も書いている。
「茶亭さはら」の七草籠は、百花園を愛する「なゝくさの会」が自主製作しているもので、竹籠は献上の籠を作る職人が作ったものとか。
七草籠というとプラスチック鉢に七草を植え、その鉢を籠に入れているものが多いが、葉蘭を敷き詰めるとは、昔からの園芸技術をそこに見ることができる。
この籠は資料的価値があるので、葉蘭とともに保存することにした。
「七草粥を祝う会」がつくっている「百花園流七草粥」のレシピもいただいた。
材料(五人分) 米一合、水七合、スズシロ (ダイコン) 三センチに切ったもの一個、スズナ (カブ)一個、セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザの五草は合わせてひとにぎりほど (籠の草々からは一、ニ枚程度)。ほかにモチ十個、塩少々。
ダイコンは千切り、カブは薄切りにし、ナズナ以下五草は細かくきざんで水につけ、アクを抜きます。(前夜に用意して水につけたほうがアクが抜けてよろしいようです。)
米をとぎ上げたら、その七倍量の水で煮ます。
ひと煮立ちしたらとろ火にし、ここでダイコン、カブ、モチを入れます。この際水をふきこぼさないように注意してください。
モチやダイコンがやわらくなったころを見はからって、きざんだ五草の水気を切って、ぱらぱらとまき散らすように入れ、すぐフタをして火をとめ、むらします。
いただくときは、各自好みの量のお塩をふりかけます。