2011年02月12日

仙台の今庄青果から、伝統野菜「仙台白菜」の便りが届いた。

仙台芭蕉菜がかつて、三河島菜だったと教えてくれたのが、庄子泰浩専務が作られたホームページであった。

その伝統野菜のトップページが、仙台白菜である。


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クリックするとHPにリンク


最近いただいたメールでは、仙台白菜で、仙台は盛り上がっていたという。

1月30日に仙台市内の12の文化施設(図書館を中心とした美術館、博物館、科学館、ミュージアムなど)が一堂に会した「としょかんフェスティバル」が初めて行われたとか。



庄子専務のメールによると
「本や美術品、科学実験、化石などが置かれた綺麗な空間。

そんな空間に何故か…仙台白菜とイナゴが登場!

地元の高校生と一緒に仙台白菜のコーナーを作ってしまいました。

台湾の故宮博物館の、「清 翠玉白菜」キリギリスとイナゴを模してみました。

一日限りのイベントでしたが、誰もが知っているはずの白菜の知らない部分を紹介し、約2,000人が訪れ とても面白い取り組みでした。」


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「また、先日お伝えした白菜王国仙台の歴史とその繁栄・崩落・そして復活が仙台市博物館の編さん室のおかげで簡単にまとめられました。

歴史の中に埋もれた事実は本当に面白いですね。」


白菜と云うと、漬物、鍋物には欠かせないものになったが、白菜が、我が国に入ったのは、慶応2年(1866)で、内藤新宿農事試験場で栽培試験をやっている。

明治末期から大正にかけて輸入された 芝罘(チーフ)は各地で品種改良がされたが、仙台の伊達養種園が輸入した芝罘によって作られた白菜が、松島の起源と農文協の専門書には書かれてある。

この松島種、いわゆる仙台白菜は、大正末期から昭和初期にかけて、全国を席捲したという。

資料によると、「おれらは東京を見たことないのに、おれらが作った菜っ葉が東京へ行く…」。大正12年(1923)秋、名取郡中田村(現太白区)で白菜を作っていたき農家の人々は、そう驚嘆した。
この年は白菜が大豊作。地元では捌きれなくなったため、宮城県農会は大都市市場への出荷を思いたち、白菜を東京方面へ出荷した。



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資料をクリックするとPDFにリンク


「出荷先は東京と横浜。大都市の市場に運び込まれた中田村の荷包みは、荷姿は良くなかったが、中から現れた白菜の姿は色が白くて美しく、歯ごたえはみずみずしく柔らか、そして味はすこぶる甘いという素晴らしいものだったのです。

結果、6貫目1俵が2円20銭〜3円という高値で、飛ぶように売れた。

この快挙によって、翌13年から白菜出荷は本格化し、全国に「仙台白菜」の名声を轟かせる大躍進が始まった。」


庄子専務は
この年の9月1日、関東大震災に見舞われた関東圏は壊滅的な打撃を受けたはずです、10万人以上の方が亡くなり土地や建物以外にも大変な被害で、農業関係でも大きな変化があっはずです。

被災地の復興と共に伝統野菜を産み続けてきた農地の宅地化が進み生産者も貴重な労働力として土木従事者として刈り出されて、人知れず消えていった伝統種も数多くあるはずです。


資料によると、
「当時としては画期的な販促キャンペーンを大々的におこない、ポスター、パンフレット、宣伝文を書いたマッチや手ぬぐいを全国の消費地に配布するほか、各地で白菜料理の講習会や試食会を開催した。

高級食材としての名声が高かったことから、京都では、高級料亭で試食会を行った。

そんな、仙台白菜が果たした役割は大きかったが、需要の増加の中で、東京近県に産地が生まれ、茨城、千葉、埼玉から大量の荷が届くようになった。

昭和13年、宮城県産白菜の出荷量は貨車4,000輌といまだ全国第1位ですが、干葉県産3,214輌、埼玉県産2,700輌、茨城県産2,500輌と宮城県産の倍の8,400輌が東京周辺県から出荷されていました。」

「戦争による中断で白菜の組織的出荷は昭和24年に再開されたが、大都市市場の様相は戦前とは一変していました。
同時期に持ち込まれた近県産物の品質の前に「仙台白菜」は圧倒されてしまった。

今、その復活が始まっている。」


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仙台 明成高校( 仙台市青葉区 )の調理科が食育活動「みんなの白菜物語プロジェクト」を実施したと云う。


当時の、東京産野菜がどう絡んでくるかが面白い。

東京府農業試験場(当時は中野)では明治33年ころから、白菜の試作試験などを行っていて、大正年代には、中国の包頭連を品種改良し、大正末期から昭和初期には、包頭連種と共に、松島も栽培普及している。


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昭和4年には東京包頭連を売り出したが、硬く結球して重いので、中に石が入っているのではないかと、南多摩の品評会では白菜を割って調べたことが笑い話として伝わっていて、

導入時は高級食材として生産者達が栽培し始めたことから、三河島菜が栽培されなくなるのも無理はない。

また、戦後の増産の中で、東京都世田谷区の下山義雄氏は、下山千歳白菜を生み出している。

それは、芝罘と包頭連との雑種後代からナンプ病の耐病性系統を作出したもの。


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いま息子さんの繁雄さんが復活に取り組んでいる。


この白菜、85〜90日と栽培期間が長く3〜5`と大きくなることも特徴の一つである。

農文協の農業技術体系のハクサイの項には「松島改良1号」との関係が記してある。



庄子専務は
三河島菜の絶滅の原因はなんだったのでしょうか? 

環境の変化、他の農作物の普及、地震、戦争・・・。

遠い仙台でその原因を調べることは出来ませんが、今回の白菜王国の編さん中に、様々なことが脳裏をよぎり、仙台白菜の普及が三河島菜の絶滅の原因ではないか?

とかそのなぜ仙台の地で芭蕉菜と名を変えて守られていたとか・・。

頭の中で面白い歴史小説が出来上がってきてしまいました。」


三河島菜は昭和8年頃までは種が販売されていたが、当時は栽培する農家が激減していた。

それは、仙台白菜の勢いを知れば、まさに庄司専務の推測は的を得ている。



追録


NPO法人の野菜と文化のフォーラムが主催する「野菜の学校2011」で仙台野菜が組み込まれたが、この話も熱っぽく語られることだろう。

posted by 大竹道茂 at 08:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 全国の仲間の話
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