同会の30周年記念・東京ミーティング「東京の伝統野菜はいま」と云うテーマで、関西の会員と東京の会員が初めて合同の学習会が行われ、熱心な皆さんからご質問もいただいた。
後日、同会の機関紙「伝統食だより第170号」を送っていただいたが、話の内容について掲載していただいた。
中筋さんからは、「会員が東京に集まるので、翌日は希望者が小田原で北条氏の食膳や街道の食などを再現した中世の料理を食べに行くので、参加しませんか」と、お誘いを受けていた。
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せっかくの機会なので、お仲間に入れていただいた。
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お店は、JR小田原駅から2分の「会席料理 米橋」で、主人の米山昭さんから、小田原を舞台にした中世の料理と食文化のお話などを伺い、堪能した一時であった。
当日は、NHK総合テレビ「きょうの料理」で活躍されている清水信子先生も同会の会員で、前日の江戸東京野菜の話も聞いていただき、食材としても興味を持っていただいたようだった。
以下、解説はいただいた資料や伺ったお話より。
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「小由留木」とは、小田原の名の起こりと云われている。
店内には、興味深いお料理のメニューが貼られていた。
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胡麻豆腐
「今日はお客様が女性がおおいので、塩味でないものも出しました」と店主。
ハレ用の烏賊塩辛(写真左上)
昭和40年代半ばまで浜方であつた。皮をむいた正身しか使わないため色も白く普通の腸づくりと差別していた。
なめ納豆油漬(写真左下)
鎌倉時代になって「なめ納豆」が作られた。
それまで寺院や高等人らの乾き納豆で、それとは別に庶民が手軽に作れることから一気に広まった。
味噌だれに漬けて油で包めば保存が効き味もよい。
油はサラダ油だが、最近は中世に使われていた米油が市販されているのでこれを使っている。
400年前の小田原のすし 鰯の早ズシ(写真右)
玄米で仕込む。相州と房州で行われていた。
沿岸の食生括は海流と関係があるという説があり、小田原は紀州と縁が深い。漁法も同じだといい、西方5キロの江之浦という漁村は一部が紀州からの移住という。
こしらえてみると、玄米は、匂いが無く乳酸がさっぱりしている。わたしはあえて、笹を沢山入れて漬けている。因みに、鯵鮨は小田原を代表する鮨。

二ノ汁煮貫(にぬき)椀
味噌を出汁で煎じるように煮だし、天井から布袋に入れて吊るして漉す。
醤油が普及する前の調理なので、わたしたちの祖先は長い間お世話になっていたわけである。江戸時代の箱根越えの宿場界隈で、保土ヶ谷から三島の先あたりまで具ナシと記されている。 胡椒を少々入れる。
これがとろろ汁の出汁に使った。醤油が普及するようになってから、料理がだれてきたという。それまでの料理は手間がかかったが、まろやかな味で広がりがあった。
皆さんからお酒でも召しあがったらと云っていただいたが、遠慮をしていたら、会員の方が皆で飲みましょうと提案いただいて、お勧めの「復元 日本最古の酒・鶴亀諸白」が出てきた。(写真をクリックする) 新潟県の上原酒造
紹興酒のような、熟成が進んだ色と味だった。
魚半ペン(海のワカサギ半ペン)
今回は海の子持ちワカサギの半ペンである。半日干しにして、身に半ぺん地をなすりつけ焙ったもの。自然薯が入ったので・・・、半ぺんは山芋と豆腐を半々にしたのが始まりという。
半ぺんは山から河口へ下りてくる。まずヤマメが旨い。ナマズもかなりと聞くが、やがてスズキになってイシモチ(グチ)あたりか。
身が一緒になり、やがて魚身が多くなってきた。この辺りが「あんぺい」だという。
笹の葉に包んだ蒸し焼き、竹の輪にぐる付けして焙り出すのも分かる。

相州の早ナマス
アジと、妻物として青ネギ、ムラメ、おろし生姜、小田原産の梅肉と橙の汁
河口近くの沖合いで、小舟でアジ、サバを釣り、船上もしくは岸に上がって酒や酢で手早く調理する。梅雨頃から土用前までという。
舟遊びができて塩と梅酢や酒が豊富にあつたからである。
お酢と塩のバランスで食べる。
とくに古い献立に散見される。しようを焦や醤とか一式謄の内を字はさまざまに当てている。たぶん味噌や出汁、具材が変っているのだとおもわれる。かなり主要な汁立てだったようだ。関東では唯一鯉こくがある。
芋を柔らかく煮て、青海苔を散らしたもの。和のシチュウと呼んでいると教えていただいた。
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焼物 杉板(サバ)室
町時代の代名詞的なもので、杉箱で煮る汁仕立もひっくるめて同じ言い方をする。杉板は間伐材の赤みがよく、香り、防菌効果がある。魚の切り身を下ごしらえ(発酵)して、板で挟んで焼く。夏にこの効果がよく分かる。

楚割(すわやり)炊き込み飯(ムロアジと牛蒡と、山椒)
スワヤリとは、万葉時代からの干し魚の総称だが、各地で意味を変えている。
小田原は割くという直訳通り手のひら大のアジを開き干ししたものを云い、麹の塩辛を作っていた人たちの浜ことばでもある。塩を振って、秋冬、朝から昇る陽に向けて干す。
潮風を浴び真上に来たときが浅干し、陽が沈むまでが固干しで特に後者のことを指す。今はこの仕込みをやらない。塩水に漬けて2.3時間しか干さない。
ス―プは鯵の中落ちを使って出汁をとっている。牛蒡と山椒

甘野老(あまどころ)の揚げもの
鎌倉時代には甘野老は贈答品に使われた野菜。
甘野老は、ユリ科の植物で、漢方薬としても用いられてきた。
砂糖がなかった時代には盛んに使われていたが、砂糖が出回る江戸中期からは、すたれて行った。
中世の料理には欠かせない野菜。
揚げていただいたが、生姜のような食感で、名前の通り甘くて、皮の部分の方が食感が良かった。
「鰯の辛煮」(写真上)
携帯保存食で一年ぐらいはもつ、乾いてきたら身をほぐしてご飯に振りかけても美味しい。
古典料理の極みで、味噌だれやお酢で炊いてある。
「旅人の塩辛(写真左と右は香の物として牛蒡)」(写真下)
烏賊の腸づくりのよくある塩からのこと。腸は塩をまぶし発酵するまで待って、身は塩をまぶすが、一干ししてからあわせる。水分を抜き、腸の発酵を活用するということである。
他にアワビやサザエ、鯛、鰹が作りやすい。ミズカマスとか、アユ、鳥なども沢山記されている。塩幸といわず全て熟し物(なしもの)といっていた。
香の物は3が月以上の漬けたもので、それより若いものを浅漬けと云う。牛蒡を味噌だれで十分に漬けた。

鱫きょう(あいきょう)
子持ち鮎を干したものは中世の贈答品。
鮎の素揚げ、子持ちで頭まで美味しくいただいた。
菓子
酥(そ) 〜日本のチーズ〜(写真右)
山陽道が栄えていた頃、ここ足柄古道に国司がいたが、相模と武蔵が交代で乳を煮詰めて納めていた。 牛乳を一割に煮詰めたのを蘇といい陸路で乳省という都の受付に収めた。これを加工した製品名が、酪、醍醐、飛鳥豆腐、・・・。大きくはチーズ系とバター系に分かれる。5つぐらいは見当が付くが、ほとんどは中国の伝鋭上のもので20種や30種もある。
年代は下って吉宗の時代、インドから9頭の乳牛を房総の勝浦の山に放牧した。本葛、当り胡麻、生姜を加えて水路で江戸城に運んだ。放牧の地名から嶺岡豆腐という。
金柑(写真左)
農家の畑の隅にあった金柑を蜜炊にしたもの。料理の前のお茶菓子なら生菓子として、生のままなら水菓子。妙りつけて砂糖まぶしにすると、後菓子の干菓子というわけ。
金柑のタネのとり方の質問に、金柑に小さくいくつか包丁を入れておいてつぶすように押すとタネが全て出るという。
「会席料理 米橋」は、
JR小田原駅より徒歩3分 TEL 0465-22-4645
ご主人の米山昭さんが料理の合間に語るウンチクは料理そのものの味を一層引き立て、美味しくいただいた。
また、清水信子先生のお料理の話も聞けて贅沢な会食となりました。
この機会を作っていただいた中筋さん初め参加された会員の皆さんにはお世話になりました。
中筋さんから同会が発行した、「おから百珍」をいただいた。
お豆腐を作った後の副産物を、昔の人たちは上手に調理して美味しい料理にした。
一品一品が、日本に根付いた食文化を伝えていて、「日本の伝統食を考える会」が発行したことに、より意義を感じる一冊で、皆さんにお薦めしたい。