平成14年に出版した「江戸・東京農業名所めぐり(JA東京中央会企画発行・農文協発行発売)」の編纂に携わったが、この本は、平成9年に「江戸・東京の農業」の説明板を都内の各地に設置したことから、皆さんに設置場所を名所として、出掛けてもらいたいとの思いから説明板の設置場所や、内容や、その周辺のことなどについて紹介したものだ。
しかし、都内には他にも農業に関わりのある「碑」がたくさんあることから、それらも調べて紹介してある。
編纂にあたっては、都内各地から情報を集めたが、出版後「等々力不動尊」に来て、「草木供養碑」が調査から漏れていることがわかり、何時か、紹介したいと思っていた。
この碑は、地元世田谷の「玉川造園組合」が昭和47年5月に建立したものだ。
昭和30年代後半から国の持ち家政策により、東京には戸建住宅が増え、世田谷では庭園樹などを植える家庭も多く、高級住宅街が形成される一方で造園業が栄えた。
造園に携わる皆さんは、草木一本へも愛情注いで、その命を大切に思う気持ちから、草木供養碑を建立したものだが、牛や馬など家畜に対する忠魂碑等は、東京でも各地に建てられているが、草木供養碑は珍しいものだ。

東急電鉄・大井町線の等々力駅で下車、南の方へ少し行って蕎麦屋の脇を右に折れたところに( 案内板をクリック )、等々力渓谷公園案内板が掲げられていて、その脇から渓谷公園に降りる石段がある。
石段を下りていくと、渓谷の上を通る環状8号線の喧噪等、辺りの交通の流れとは打って変わって、静寂の中に谷沢川が流れ、小鳥のさえずり、時折吹き抜ける風が木々の梢を揺らす・・・。
この渓谷も、戦後、周辺農地の都市化が進み下水道の設置が追い付かず、悪臭が漂う時代もあったが、環境整備が整ったことから、東京とは思えぬ寛ぎの景観になっている。

もみじをクリックすると、渓谷の中ほどに、稚児大師御影堂(弘法大師御誕生1千2百年記念)があり、野生のカモが人を恐れずに、道端で餌をついばんでいた。
数千年の間、干ばつの年でも枯れることなく冷水が流れ落ちていると云う。
そもそも、「等々力」の名の起りは、渓谷に「轟く」瀧の音から付けられたといわれ、年間千人以上の方々が瀧に打たれて修行している。
この時期は水量も多いのか、龍の口から勢いよく清水が流れ出ていた。
壁面を流れ落ちる清水は、積み重なった苔を潤している。
渓谷から石段を上っていくと、そこが等々力不動尊、この境内に、トップで紹介した「草木供養碑」がある。
等々力駅を降りてから、ここまで800b程だろうか、つかの間の渓谷美を堪能できた。
この辺りは、水に恵まれていたこともあり、渓谷の中ほどには横穴古墳があるほか、渓谷周辺には幾つもある。
東急電鉄の等々力駅を北に向かってしばらく行くと、都立園芸高校があり、江戸東京野菜の栽培に取り組んむ学生たちが学んでいる。

上の画像をクリックして、Googleマップで園芸高校を確認してから
真南に東急大井町線の等々力駅があり
その西側にゴルフ橋があり、そこが渓谷の北の入り口です。