2011年06月16日

江戸東京の在来作物「柳久保小麦」の刈り取りが始まった(東久留米)。


先日、清瀬のうどんやで食事をした帰りに、東久留米市の柳窪を通ったら、柳久保小麦が栽培されていた。

東久留米の柳窪に伝わる在来作物だ。


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この麦は通常の麦よりも1.5倍も丈が高い麦で、昔は、屋根材として重宝がられていた。

屋根は、丈夫な茅(かや)を使った茅茸屋根が、理想的だが、東久留米には茅野が少なかったことから、東久留米周辺から神奈川など近隣県でも、農家のワラ屋根の材料として丈の長い柳久保小麦のワラが普及した。

この麦、丈は長くなるが、穂が小さいことから、昭和17年(1942)、食糧増産政策にともなって、栽培されなくなった。

その後、食糧が充分にまかなわれる時代に入ると、今度は、消防法の改正によって麦屋根( 方言でムイカラヤネ )は作ることができなくなり、柳久保小麦のタネの存在はいつしか忘れられてしまった。

他の小麦の1/3と少ないが、柳久保小麦で作ったうどんの味が格別美味しかったことから、その味を知る人たちは探していた。

そのタネが、(独)農業生物資源研究所に残されているを知った奥住さんは取り寄せ、昭和60年栽培が復活したもの。



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「柳久保小麦」の農業説明板は、東久留米市柳窪の緑地保全地区内にある天神社境内に、平成9年に地元のJA東京みらいが設置しているが、

宮司さんが常駐していないこともあり、説明板は硬いものを繰り返しぶつけたような傷跡が無数に着いていた。情けない。


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江戸時代、旅の土産はタネが喜ばれた。珍しい作物、大きな作物、美味しい作物等のタネは喜ばれる土産になった。

嘉永四年(1851)、柳窪(現・東久留米市柳窪)の住人・奥住又右衛門が旅先で長い穂の麦を見つけ、その穂先を持ち帰えった。これが「柳久保小麦」だ。

奥住又右衛門の末裔・奥住和夫さんに「何時頃刈り取りをするんですか」と、電話をすると、梅雨の中休み、15日頃だと云うので、伺った。


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遅れて行ったらボランティアの皆さんが手伝って、刈り取りは終わっていて、畑の隅に昔ながらの方法で干してあった。


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説明板を立てたことで、平成13年(2001)、その存在を知った東久留米市ではこの貴重な小麦を地元の産業振興に結びつけようと、予算化し市内の農家八軒に協力を依頼した。

次第に栽培が拡大し、「柳久保小麦の会」が結成され、手打ちうどんの「糧うどん」の他、「カリントウ」「饅頭」などに加工され、売り出されてもいる。

「江戸・東京の農業」説明板のスタンプ・デザインを活用して、シールが作られ、かりん糖に貼られていた。

今年は、東久留米市地域産業推進協議会が地元の特産品として、農林61号を使った乾麺200c、希望小売価格210円、で7月1日にJA東京みらい(042-475-0027)で販売するが、

続いて、柳久保小麦の乾麺「柳久保小麦うどん」の発売も計画されている。


追録



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柳窪天神社は、緑地保全地区の中にある。


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緑地保全地区から散策路が整備されていて、19日(日)には「ホタル観賞の夕べ」が開かれる。

この緑地保全地区を流れる川は、黒目川の源流で、末は新河岸川に流れ落ちている。


posted by 大竹道茂 at 00:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 東京の農業と農業者達
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