2011年09月17日

江戸東京野菜「たけのこ」を導入した山路治郎兵衛勝孝の貴重な資料に触れる。


品川区の目黒駅前商店街のイベントで有名なのが「目黒のサンマ」だが、これは落語の噺。もう一つ知る人ぞ知るのが「目黒のタケノコ」で、そもそも江戸期には「戸越のタケノコ」として、神田市場では名が通っていたもの。

 築地鉄砲洲で幕府御用の回船問屋をしていた山路治郎兵衛勝孝が安永年間(1772〜81)に戸越村(現・品川区)に別邸を建てた折、同地に特産物がないことから薩摩から孟宗竹を導入した。
おかげて、村の人たちの生活が潤ったと云うことで、村人たちにとっては恩人である。

その後、目黒不動尊山門前の料亭で季節のタケノコ飯を売り出したところ有名になり、タケノコは目黒に限ると云うことで「目黒のタケノコ」として有名になった。


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今年の3月初め、江戸東京野菜の話を頼まれて、教育大OBの会(茗渓会葛飾支部)に寄せてもらったが、
この席で、コーディネーターをされたのが、都立稔ケ丘高校統括校長の徳田安伸先生で、色々とお話をさせていただいたら、先生のご親戚がタケノコの山路家だと云うのを伺って驚いた。

私は、高校2年まで目黒で育たから、子供のころは目黒不動尊の縁日(28日)によく出かけた。だから目黒のタケノコの話も、昔から聞いていた。

先日、徳田先生の計らいで山路安清先生にお会いすることが出来。貴重な文献や、孟宗竹栽培由来記等を見せて戴いた。



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(写真をクリックすると品川区指定史跡案内)


大正12年3月、山路家の屋敷の脇が切り開かれて、目黒と丸子の間に鉄道が開通し、踏切を渡らなければ山路治郎兵衛勝孝の殖竹塚には行けなくなってしまった。 目蒲線である。

それが、数年前に目蒲線が地下に潜ったことで、線路跡は遊歩道になり、80数年ぶりに列車通過の騒音が消えた。



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安清先生は、品川区の資料館に預けてある山路家の巻物(写真をクリックする)、山路勝孝遺言書「申残シ置キ候 仕来之定」を取り寄せておいてくれていて、見せて戴いた。
難解な書のため、楷書に書き改めた資料を戴いた。



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孟宗筍栽培記念碑「殖竹塚」は、
筍の形をした自然石に「櫓も楫も弥陀にまかせて雪見哉 釈竹翁」と治郎兵衛の辞世の句が刻まれている。
(写真をクリックして、拡大すると読みやすい)


この碑は、当時山路家が所有していた3万坪(10f)の竹林の中央に、治郎兵衛の子、三郎兵衛が父の遺言通り文化3年12月に建立したもの。

ここが中心だったのかと改めて、建て混んだ住宅街を見まわしてしまった。



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島津吉貴が中国から琉球国を通じてこの地に移植したとある。「仙厳別館江南竹記」の碑と孟宗竹の竹林。今年出かけた時撮影したもの。
「仙厳別館江南竹記」の碑文は、現地では読めなかったが、この度、戴いた資料の中に入っていた。



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姉と兄が通っていた目黒区立中目黒小学校は明治34年創立だが、当時タケノコ栽培が最盛期を迎えていたので、校章はタケノコである。
右が昔の校章で、左が現在の校章。

校章をクリックすると、目黒式孟宗竹栽培法を今も実践する、世田谷区弦巻の鈴木芳男氏と竹林。



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かつての山路家の竹林のあった辺りは住宅が密集し、夏祭りの最中でお囃子が流れ、( クリックする) 金魚すくいや、綿菓子等に人だかりがしていた。


安清先生は、現在沖縄県の「那覇市観光大使」もされており、お忙しい中貴重な時間を割いてくれたわけで、奥様はじめご家族の皆さまにも大変お世話になりました。

山路安清先生、有難うございました。
また、徳田安伸先生、有難うございました。
posted by 大竹道茂 at 04:46| Comment(0) | TrackBack(0) | その他関連情報
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