2011年10月25日

緑多い都市 “東京” を演出する 明治神宮内苑・外苑の造営史と福羽逸人の思いを学ぶ。


明治神宮国際神道文化研究所主任研究員・今泉 宜子さんからメールをもらった。

「以前、大竹さんにご紹介いただいた本荘暁子さんですが、おかげさまで、10月22日に開催する公開研究会でご発表をいただくことになりました。
もし大竹さんのご都合が許すようでしたら、是非ご参加いただきたくご案内をいたします。」
と云うものだった。




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会場は、明治神宮外苑の聖徳記念絵画館内会議室とあったが、今年の6月30日に、同館と内苑の宝物殿が重要文化財に指定されたので、その内に行こうと思っていた矢先でもあった。

神宮外苑は子どもの頃から良く行っていたし、小学校の五年生の頃だったか学校から写生をしに行って絵画館を描いたことを覚えている。



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研究者を対象にした定員50名程度の研究会と云うことで、後日、参加票が送られてきた。
今泉さんに、昨年の勤労感謝の日にお会いしたことは、当ブログの追録で紹介している

今回のテーマが「明治神宮の造営前史と隣接空間」で、お二人の方が発表されると云うことで、その一人が本荘暁子さんだ。

本荘さんは、財団法人国民公園協会 新宿御苑にお勤めで、当ログでも紹介しているが、江戸東京野菜の復活に必要な、資料や情報など、何かとお世話になっているばかりか、スタディー&カフェでも講演をお願いしたが、好評だった。



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今泉さんは、研究者として明治天皇に関してお調べになっている、また本荘さんは明治天皇の皇室庭園を手掛けた福羽逸人研究の第一人者と云うことで、二人を引き合わせたのが昨年の新嘗祭の後だった。
今泉さんが企画した今回の報告は、お二人を知る者としては願ってもないテーマでもあった。




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開会にあたって今泉さんから開催の趣旨が述べられた。
大正15年(1926)10月22日、聖徳記念絵画館の正面表玄関階段及びその前の広場に式場が設けられ、明治神宮外苑竣工奉献式が行われた。
国民の寄付による民間組織の明治神宮奉賛会が基本計画を策定し、その委嘱により政府組織の明治神宮造営局が工事を進めていた外苑の施設が竣功に至ったため、摂政宮(後の昭和天皇)御臨場のもと、皇族や当時の首相以下各大臣、造営関係者ら1104名が参列し、明治神宮に外苑を奉献する儀式が厳粛に執り行われたのが、85年前のこの日です。

 今回、この記念すべき10月22日に検討してみようとするのは、大正期における明治神宮の内苑・外苑造営の前提、つまり、明治期の知られざる「造営前史」である。「明治50年」を期して代々木と青山で計画されていた幻の「日本大博覧会」構想における設計競技で一等当選した宮内省内匠寮の吉武東里。
そして、明治神宮のお隣である日本初の皇室庭園としての「新宿御苑」成立に尽力し、代々木と新宿の御料地を併せた一大御苑をも構想した宮内省内苑頭の福羽逸人。この埋もれていた二人の営為を掘り起し、多様な観点から議論をすることで、明治神宮内外苑の造営構想に潜む〈伏流〉に迫っていきたいと考えた。




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報告 1 長谷川香氏(東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士課程)
      「日本大博覧会と明治神宮」〔13:40〜14:40〕

長谷川さんの話では、明治初期、代々木に皇室御料地( 現在の明治神宮の一部 )があり、青山には陸軍省の練兵場(明治19年)が置かれていた。
明治末に「日本大博覧会( 以下大博 )」構想がおこり、両地がともに会場予定地に選ばれた。それまで何ら関係のなかった二つの離れた土地がひとつの敷地として取り扱われることとなったという。
大博構想が具体化してゆく中で、それぞれの会場内の諸施設の配置計画を決定すべく、明治44年(1911)には大規模な設計競技(コンペ)が開催され、一等に宮内省内匠寮勤務の無名の新人・吉武東里が当選を果たしたという。

因みに、東里は後に国会議事堂の実施設計をしたばかりか、今回の会場、聖徳記念絵画館の設計競技にも参加して入選している。

東里は、代々木会場は広大な井伊家下屋敷跡、既存の高低差に富んだ地形や植栽を利用して、「田舎的」に、青山会場は練兵場の平坦な地形を利用して「都会的」な博覧会会場を提案している。
しかし、結局財政難により大博は中止となり、二つの敷地は、その後紆余曲折を経て、大正期に明治神宮内苑と外苑が造営された。

長谷川さんの研究は、大博における具体的な会場内配置計画や設計コンセプトが明治神宮の「内苑・外苑」の造営において反映されたのではないかと云うもので、大変興味深いものあった。



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報告 2 本荘暁子氏(財団法人国民公園協会新宿御苑広報案内担当)
      「新宿御苑の造営と福羽逸人の皇室庭園構想」〔14:50〜15:50〕

本荘さんの福羽逸人研究の一端は、先にブログを紹介したが、それに加え、明治神宮との関係性を「回顧録」から紹介してくれた。

福羽逸人は、明治29年に代々木の御料地と新宿植物御苑・現在の新宿御苑の間の民間地を買収して、青山の練兵場を含めた広大な皇室庭園構想を進めていたという。
明治40年に、政府から大博覧会の会場として新宿植物御苑を使用できないかと打診されるが、丁度、明治39年に皇室庭園として開園したばかりだったので、福羽は激怒し、反対の意見書を宮内大臣に提出している。

その後、政府は、皇室庭園を断念し、練兵場と御料地をつなげた2会場の構想を打ち出したようだが、福羽は御料地や皇室庭園は、皇室の財産だから、分割譲与の伴う大博に使うべきでないとの思いがあったようだと、『回顧録』の記述から報告された。






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写真左から
司会:
藤田大誠氏(國學院大學人間開発学部准教授)
コメンテーター:
畔上直樹氏(上越教育大学大学院学校教育研究科准教授)
青井哲人氏(明治大学理工学部准教授)
写真下左から
本荘暁子氏、長谷川香氏

司会の藤田先生、コメンテーターの先生方のお話も、参考になるものだったが、当ブログでは、専門的過ぎるので失礼し、同国際神道文化研究所のレポートにお任せする。



今泉さん、本荘さん、そして長谷川さん、有難うございました。

今回のテーマは、お二人を紹介した時にイメージしたものが実現したようで嬉しい。
今後、明治神宮と新宿御苑のコラボレーションによる企画等、お二人の更なるご活躍を祈念申し上げる。


posted by 大竹道茂 at 00:02| Comment(0) | TrackBack(0) | その他関連情報
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