NPO法人ミュゼダグリの12月の農家見学は、下山千歳白菜を栽培する下山繁雄さんを訪ねた。
この農家見学会は、都政新聞が“東京育ちの美味探訪”を連載しているが、この取材先を紹介している関係で実施しているが、
取材には食育・野菜料理コーディネーターの酒井文子会長が同行し、料理の原稿を書いていることから、折角だからと農家見学となったもの。
下山千歳白菜は、下山義雄氏がウイルス病に強い白菜を育成した品種。
同じ畑で何年もつくりつづけることによって現れる障害(連作障害)で、年々ウイルス病が多発し、被害は拡大していった。
昭和20年代には白菜栽培は減少の一途をたどった。
それを救ったのが、昭和28年、世田谷区北烏山の篤農家・下山義雄氏が育成した耐病性品種の下山千歳白菜で、しかも大玉で5〜6`にもなる。
今日では、核家族になったことから大玉は敬遠されて作られなくなってしまったが、息子の繁雄さんは「親孝行だと思って作っている」と言う。

市民緑地として、守られている「北烏山九丁目屋敷林」は、「せたがやトラスト協会」が貴重な緑豊かな自然環境、世田谷らしさを今に伝える歴史的・文化的環境だとして、下山家の屋敷林等を保全することが、やすらぎとうるおいのある世田谷のまちづくりに役立つとして位置付けたもの。

畑から、京王線「千歳烏山」駅の近くの高層ビルが見える。クリックすると下山千歳白菜の畑。
屋敷からは木々の梢で気がつかなかったが、畑から見えるのが都市農業の景観だ。
繁雄さんは、サラリーマン生活が終わった8年前に就農、コツコツと農業を一から学び、多品目を栽培するまでになったが、屋敷の裏にある農地は、義雄さんの相続で大幅に減少した。

義雄さんが存命中の平成10年に「烏山みずとみどりの会」から、「烏山の地で生まれた白菜を見てみたい」と云う要望が寄せられ、復活が果たされたもの。
タネ探しから始まった復活、協和種苗にあることがわかり、取り寄せて栽培したものだと、細川奈津美記者と農家訪問の一行にわかりやすく説明する繁雄さん。

ミニ白菜が好まれる時代だから、市場には出荷せずに、給食センターなどの業務用に販売していると云う。
繁雄さんは、愛おしむように庖丁を入れるが、ずっしりと応える。
同新聞掲載用のレシピを考えるために、酒井さんが1個分けてもらったが、参加した上原恭子さんは、キムチに合う白菜を知ってか、私も1つと言うことになった。
秤で計ったら二つとも 7`の白菜だった。
この白菜、当ブログで紹介した東京都市大学付属小学校の「ミクニレッスン」料理実習 ( 2月27日 )に、持って来てもらうように繁雄さんにお願いしたが、子どもたちは驚くだろう。

繁雄さんのお住まいに案内されたが、記念碑に刻まれた、故大場啓二氏(世田谷区長時代)の揮毫がかけられてあった。
額をクリックすると、下山千歳白菜の名称登録証。

繁雄さんは、出版社にお勤めだったと云うことで、平成12年に「農に生きる―白菜育成にかけたわが人生 下山義雄」を出版、「編集」と「文」に下山繁雄とある。
ご本には、「下山千歳白菜」が生れたバツクボーンの、「ふるさと烏山のこと」、「明治、大正、昭和期の下山家」、
そして、下山千歳白菜の詳細なデータ―などがまとめられている。
繁雄さんをクリックすると、同誌に掲載されているご両親の写真。
この貴重な本は戴いた。
下山さん、色々と有難うございました。
三浦大根は、練馬大根と高円坊大根の交配で明治38年に生まれた大根。
核家族時代に、これも産地三浦では販売に苦戦していると聞く。
当ブログでは、繁雄さんについて、JA東京中央の出竹優子特別通信員の記事を紹介している。