下富(所沢市)で江戸農法を実践する横山進さんから連絡があり、午後から始まる「農と里山のシンポジウム」に先だって、午前中に三富(上富、中富、下富)を案内するからと武蔵野線の東所沢で待ち合わせた。

これまで、三富について書いてきた元埼玉新聞記者の中西博之さんも来てくれていて、三富の案内してくれた。
川越のさつま芋が伝わった、「南永井の始作地」の碑で下車。
写真右から、鬼頭秀一先生(東京大学大学院教授)、進士五十八先生(東京農業大学名誉教授・元学長)、横山さん、中西さん、藤原勇彦氏(ジャーナリスト・前森林文化協会常務)。
碑が見えるように云われて、横山さんはしゃがみこんでしまった。(笑)
寛延四年(1751)に、上総国志井津村(現千葉県市原市)から南永井村(現所沢市)にさつまいもの種芋がもたらされると、三富地域でもさかんに生産されるようになり、文化年間(1804〜1817)には「富のいも」のおいしさが評判となったが、その後、江戸で手軽な焼き芋が流行ったこととで「川越いも」は有名になった。
この碑のある吉田さんのお宅には、2009年「江戸東京野菜」(物語篇)の執筆のために取材に来たことがある。

三芳町立上富小学校の屋上からは、上富の地割が一望できる。
この地は、3年前の21年10月に、「大人の食育」推進講座。
「江戸東京伝統野菜の産地を見て学ぶ」バスツアー城北コースで、ガイドの中西さんと、ガイドの一人としてきたことがある。
上の写真をクリックする。
林が伐採されて、倉庫が建設され、また、トラックの駐車場等も目立つようになったと云う。

「三富開拓 地割遺跡之碑」は埼玉県指定旧跡に指定されていて、小学校の屋上には視界に入る景色が描かれ、「耕地の様子」が設置されていた。

上富小学校の入り口には三芳町指定文化財・旧島田家住宅が移築されて、当時を今日に伝えている。
上富村では天保元年(1830)から上富小学校が創立される明治7年(1874)まで、この島田家で寺小屋が開かれていた。
囲炉裏には火が熾きて煙が立ち込めていたが、茅葺の家を守るには必要な日々のルーチンだ。
大きな籠は初めて見たが、山掃きに使うものだと云う。
平成8年に開拓300年を記念して旧島田家住宅を移築したと書いてある。
多福寺
元禄九年八月、柳沢吉保は開拓農民の心のよりどころとして、上富村に臨済宗三富山多福禅寺を建立した。
出身地の異なる開拓農民による新田村落に、寺社を建立することによって村民の一体的まとまり、連帯感情を作り出した。
多福寺は、三富農民の精神的支柱として大きな役割を果たしていきた。
多福寺の山門には「呑空閣(どんくうかく〉の額がかかっている。
藤原さんが「にっぽんの里100選 ガイドブツク」(財・森林文化協会・発行)を贈ってくれた。
「にっぽんの里100選」は、2008年1〜3月までの募集で集まった4,474件の中から、選定されたもので、事業は、朝日新聞社と森林文化協会が共催。
選定された一つ、23番目に「三富新田」が「江戸期の地割り生かす」で、同ガイドブツクに掲載されていた。
藤原さん有難うございました。
第2回「農」と里山シンポジウムはここから
シンポの会場に行く前、昼食は中新井のお蕎麦の「玉川」04-2942-8218。

畑作地帯の「三富新田」では、開拓直後はアワやヒエ等の雑穀が栽培されていたようだが、明治以降、食糧増産の時代には、麦も栽培され、うどん文化は、隣接する東京の北多摩地区と、まったく同じ。
三富地域から、近隣の武蔵村山、東村山、清瀬、東久留米、田無等へ嫁に出した家も多く、東京にも親戚が多い。
この店の手打ち蕎麦が美味いと、横山さんのお勧めだったが、肉汁うどんの300グラムを注文した。
武蔵の農家では、お客が来てから30分でうどんを打つことが、農家の嫁の仕事、だからコシがあるうどんではない。
うどんも美味しかったが、豚肉の肉汁も甘味があって美味しかった。