昨年の9月に、江東区の教育委員会で学校給食指導担当をされている馬場紀子係長に、砂町にゆかりのある「砂村三寸人参」を栽培したいという学校を探してもらった。
砂村三寸人参のタネは、前年に栽培をしてもらった、都立園芸高校の横山修一先生から栽培したい学校があるなら、お分けすると語っていたからだ。
人参は遅くとも8月下旬には蒔いておかなければならないが、第四砂町中学校(伊藤雅夫校長)が見つかり、播種をする指導者として、前年、砂町小学校の指導をお願いした、JA東京スマイルの関口隆雄副組合長にお願いするなどしていたから、播種は9月29日になってしまって、1ヶ月遅れになってしまった。
その後、2ケ月して同校を訪れ、生育状況を見せてもらったが、このことは当ブログで、紹介している。

5月15日に収穫を迎えたと、馬場係長から写真添付で報告をいただいていた。
上の写真をクリツクする。
収穫したのは81本。どれもが三寸人参の名の通り、10センチ前後の生育だった。
ただ固定種の揃いの悪さは仕方がないが、おいしそうなニンジンに仕上がっていた。、
収穫したニンジンは、翌日の給食に、同校の栄養士の塩入増子先生が考えたメニューは、砂村三寸人参入りの蒸しパンとして調理され、特に砂村三寸人参の存在感がわかるように調理された。
尚、数本が抽苔しており、タネを採って今年も栽培できるように、ポットに残し引き続き管理されている。
馬場係長は、「今後、砂村三寸人参、砂村一本ねぎともに他の学校へ種を分けるなど、複数の学校で栽培ができればと考えております。」と語っていた。

2010年に砂町小学校、 2011年には第四砂町中学校と、指導をお願いした関口隆雄氏には、お世話になりっぱなしだったので、ご挨拶にお宅に伺った。
関口家は、砂村の都市化で昭和12年に現在の西葛西に移り住み、関口氏は同年に生まれた。
当時、近くを流れる荒川には橋もなく、西葛西からは遠回りをしなければならない不便なところだったという。
同氏は1974年(昭和49年)に日本農業賞東京都代表の個人の部で「担い手」として同賞を受賞している。
同賞を受賞したころの「つまみ菜」収穫風景。遠く東西線の高架が出来上がったころ。
地下鉄東西線が計画され 1979年(昭和54年)10月1日に西葛西駅開業したことで、駅前1分の所で農業を続けた。
1988年(昭和63年)には、東京築地青果で一番の年間取引額を記録したという。
当時はつまみ菜(3月〜10月)、春菊(10月〜2月)、ターサイ(10月〜3月)のローテーション。
特に、ターサイを日本に導入したのが関口さんで、一番良いものを栽培していたから、横浜中華街がお客さんだったという。春菊なども老舗がこぞって買ってくれたという。
尚、つまみ菜は、1996年大阪堺市で発生したO157中毒事件で、カイワレ大根が原因とされたことで需要が激減したことから栽培をやめてしまった。
しかし、原因はいまだにわかっていない。
当時卸では、築地三徳や金八が主な取引先だったというが、両社は現在、江戸東京野菜普及推進連絡協議会の役員としてご活躍を頂いていて、ご縁を感じる。
現在は、マンション経営の傍ら、自宅周辺の空いたスペースと、隣の千葉県で農業をされている。