2012年09月21日

せっかく来たから清澄庭園の周りをぶらり、芭蕉に出会う。


清澄庭園は、明治から大正にかけ三菱財閥の富豪、岩崎彌太郎が、今まで心に残った名園の数々を参考として江戸時代の大名庭園を造り上げたものと伺った。
先日、清澄庭園で行われたた庭園アカデミーを受講した後、江戸切絵図を参照しながら、庭園の周辺を歩いてみた。

庭園の南側に仙台堀川が流れていた。
川には海辺橋が架かり、橋の袂、南詰に「採茶庵跡」(さいとあんあと)の碑と旅支度姿の芭蕉像があった。



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上の写真をクリックする
採茶庵跡の碑には、石柱の三面にわたって次の碑文がある。

「芭蕉の門人 鯉屋杉風は、今の中央区室町一丁目付近において代々幕府の魚御用をつとめ深川芭蕉庵もその持家であったが、平野町内の三百坪ほどの地に採茶庵を建てて みずからも採茶庵と号した。芭蕉はしばしばこの庵に遊び「白露もこぼさぬ秋のうねりもな」の句をよんだことがあり、元禄二年 奥の細道の旅はこの採茶庵から出立した。  32年10月1日」
 


ものの本によると、芭蕉は、それまで住んでいた、小名木川が隅田川にそそぐ岸辺にあった庵を手放し、杉風(さんぷう)の別宅、採茶庵に厄介になっていたが、元禄二年三月二七日(1689)採茶庵を後にして、仙台堀から船に乗り、隅田川に出てからは、さかのぼって千住まで行き、奥羽街道を下って「奥の細道」へ旅立って行った。とある。




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海辺橋北詰の所に、江東区が建てた「芭蕉記念館・深川江戸資料館案内図」があった。

上の写真をクリックする。
現在の清澄庭園は、絵図の久世大和守の屋敷(緑丸)跡で、岩崎彌太郎が明治11年に3万坪を買い取り、庭園を構築した。

海辺橋(赤丸)の南詰めに、採茶庵があり、現在「芭蕉の像」がある。

紀伊殿(青丸)に芭蕉庵の古跡庭中に有り。現在は隅田川の岸辺に記念館などがある。

深川佐賀町(黄色)は、深川江戸資料館の常設展示の街並み。


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何年か前に、「江戸東京野菜バスツアー」の下見で、日本橋から清洲橋を渡って、小名木川に架かる万年橋へ、
橋の北詰め、小高い所にも芭蕉の像(芭蕉庵史跡展望庭園)があり、新大橋と清洲橋の間を悠々と流れる隅田川を見つめている。
あの時は10月中旬で萩の花が咲いていた。



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東京メトロ半蔵門線の清澄白川駅の改札脇の通路に、近くにある「深川江戸資料館」の案内版があり、八百屋「八百新」の店先が紹介されていた。
深川江戸資料館の常設展示は、写真はOKなので、八百新の店先を撮らせてもらったことがある

江戸時代末期、天保年間頃の深川佐賀町の町並み(深川切絵図を参照)を想定復元したそうだが、野菜などは、季節によって入れ替えると聞いている。





posted by 大竹道茂 at 00:42| Comment(0) | TrackBack(0) | その他関連情報
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