2012年09月22日

村上信夫総料理長が書いた「帝国ホテル厨房物語」に、若き日の三國清三シェフを見た。


「地元野菜の魅力再発見」をテーマに、先日「野菜の日」に三國清三シェフとのトーク企画があった

これまで、何回か三國シェフの料理人人生の話をお聞きしたが、苦労された話をシェフ一流のウイットに富んだ話術で話すものだから、いつもつい引き込まれてしまう。




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三國シェフは、幾つもの人生の分岐点を、ポジティブに、不屈の精神で我が道を切り開いてきた。

家庭の事情で高校に行けず、札幌で住み込みの丁稚生活でハンバークと出会う。

札幌一のハンバーグを作りたいと、奇襲作戦で札幌グランドホテルに採用される。

神様・村上信夫シェフを頼って、帝国ホテルにパートで勤める。

そして、20歳のパートが、村上総料理長の推薦でスイスの日本大使館付き料理長にと、挫折しどん底から、大きく飛躍するチャンスを得た。


帝国ホテル当時、三國シェフは、パートタイマーだったが、ここで働けるなら鍋磨きでもなんでもやってやると、懸命に働いた。
特に鍋磨きには自信がある。だれよりも早くきれいにていねいに磨いたし、いわれなくても率先してねじのゆるみなども直したりもした。と・・・

正社員になる日を夢見て、来る日も来る日も、各部署にある汚れた鍋を一つ一つ懸命に磨き上げたという。

また、村上総料理長に認めてもらうため、存在をアピールしている。

当時、村上総料理長はNHKの料理番組「きょうの料理」 にレギュラー出演していたが、
手伝う助手が一人もいないことに気づき、これぞチャンスと勝手にアシスタントにつく。

料理の手順を見ながら、先を読んで、村上総料理長が、「次にフライパンで……」と振り向いたそのとき、さっと手渡す。と云うように。

しかし、先輩たちは面白くない。撮影が終わったとたん調理場の裏手に呼び出されたりもしたと・・・。
しかしひるまず、次の撮影のときには、下ごしらえや料理の手順をきちんと勉強して、前もって食材に塩やコショウを振るところまでやった。と云う。

その頃、パートから社員への登用制度が廃止されてしまい、夢も希望も失いどん底で、故郷に戻ることまで考える。

そんな時に、村上総料理長から呼ばれて、スイスの日本大使館付きの料理長に推薦される。

 総料理長はなぜ、パートで鍋磨きのぼくを料理長に抜擢したのか?。
その理由は後年、村上総料理長の著書「帝国ホテル厨房物語」(日経ビジネス人文庫)で初めて知ったという。




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そんな話を聞いて、村上総料理長のお人柄を知りたくて「帝国ホテル厨房物語」を買い求めた。

村上総料理長は、これまで多くの弟子たちを世に送り出していたに違いないが、同書には帝国ホテル東京の第13代料理長の田中健一郎シェフと、三國シェフの二人だけを紹介している。

「洗い場から飛び出した男、三國清三」がそれだ。

「もう一人、忘れがたい弟子がいる。「オテル・ドゥ・ミクニ」のオーナーシェフ、三國清三君である。
 ・・・・・私が総料理長だった当時、札幌グランドホテルから帝国ホテルに志願してやってきた。
正社員の粋がなく、パートタイマーで採用したが、やる気があって、よく気がつく男だった。
何にでも一生懸命で、良い意味での「欲」があった。

 駐スイス大便への赴任が決まっていた小木曽さんが「専属コックにいい人はいないか」と打診してきたとき、頭に浮かんだ何人かの候補者の中から、私は三國君を選んだ。
当時、三國君はまだ二十歳の若者、しかも帝国ホテルでは鍋や皿を洗う見習いだったため、料理を作ったことがなかった。

では、なぜ私は三國君を推薦したのか。
彼は、鍋洗い一つとっても要領とセンスが良かった。戦場のような厨房で次々に雑用をこなしながら、下ごしらえをやり、盛りつけを手伝い、味を盗む。
ちょっとした雑用でも、シェフの仕事の段取りを見極め、いいタイミングでサポートする。

それと、私が認めたのは、塩のふり方だった。厨房では俗に「塩ふり三年」と言うが、彼は素材に合わせて、じつに巧みに塩をふっていた。実際に料理を作らせてみなくても、それで腕前のほどが分かるのだ。」
とある。

三國シェフは先のトークで、「人間が、美味しいと感じるのは、0.7パーセントの塩分で、札幌グランドホテルを含めそれまでの体験で食材を見ただけで、どれだけ塩を振ったらいいか見分けられるようになっていたんだ」と当時を振り返る。

平成12年(2000)、三國シェフは九州・沖縄サミットの外相午餐会総料理長に選ばれたとき、村上総料理長に試食を頼んだが、
同書には「・・・・私は黙って食べ、食べ終わると、言った。「これでよし、大丈夫だ」。 つけ合わせも ソースもメイン料理も申し分ないと思った。

・・・・味付け、料理のコンビネーション、分量、どれも満点だった。腕と頭を使い、心を込めたメニューだった。

私の反応を見て三國君はとても喜んだが、私もうれしかった。」
とある。

同書には、2002年に三國シェフが「序文 わが恩師、村上ムッシュ」を4頁にわたって書いている。

村上総料理長は、小学五年生の時に両親が他界、苦労して18歳で憧れの帝国ホテルにたどり着く。そこでの下積み生活が書かれている。

「道が開けるきっかけは、鍋磨きだった。
 
「・・・・・私は、休憩時間に磨き始めた。ほとんどが「あか鍋」と呼ぶ、重い銅鍋だ。ブラシで一生懸命こすってもなかなか落ちないから、かなりの重労働になる。午後の休憩時間に休みたいのを我慢して、二カ月ほどかけて、各部署にある二百ぐらいの鍋をきれいにした。」

「・・・・・私の修業時代を思い返してもそうだが、目の色を変え、汗だくで奮闘する若者には、目をかけてくれる人が必ずいる。」
と書いているが、

自らの体験から、三國シェフが与えられた仕事に全力で取り組む姿勢を、じっと見つめていたようだ。

また、定年後は、オナーシェフとして吉祥寺に店「シェ ムラ」を出す準備をしていたようだが、しがらみの中で叶わなかった。
帝国ホテルに戻らずオナーシェフとなった三國シェフが羨ましかったのではないかと、思える節もある。

もう一度、在りし日の村上シェフにお会いしよう。
 
余談


戦争体験もしていて戦地では最前線、シベリアへ抑留もされた、そして5年半ぶりに進駐軍に接収されていた帝国ホテルに戻る。

当時、私は目黒に住んでいた。目黒から須田町行の都電に乗ると、進駐軍に接収されていた帝国ホテルライト館の前を通るが、大柄なアメリカ人が出入りしていて子供ながらに近寄りがたい建物だったのを覚えている。
あの頃は大手町には、駐留軍のかまぼこ兵舎が建っていたのを記憶している。

村上総料理長が健在の頃と思うが、職場の後輩の結婚式で招かれたことがあった。
私にとって敷居が高すぎて、帝国ホテルで食事をしたのは、それを含め数回しかない。



                      
posted by 大竹道茂 at 00:44| Comment(1) | TrackBack(0) | 三國シェフと江戸東京野菜
この記事へのコメント
あの 暑い日「野菜の日」の企画講演会に参加出来て( ^ー゚)ノ""
   本当に有難うございました。
先生方のお話は 江戸の2文字を連想し 日本人として 嬉しい私でした。
 日本食の世界遺産 ガンバレ!!

涼しい風が吹き・・・
美味しい野菜の茄子も 
「秋ナスの味」になりました。 
自然の温度を 野菜は感じてい〜る
そんな! 事に感動している私

千日紅のお花も 
今・ドライフラワーに変身しています。
Posted by 千日紅 at 2012年09月24日 23:04
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