戦後の、東京農業を技術面で指導してきた植松敬先生は、都立園芸高校の「江戸東京野菜プロジェクト」の皆さんの活動報告をまじかにしたことで、同校の取組を心強く思われたようだった。

横山先生の案内で圃場を視察した。上の写真をクリックする。
圃場には、渡辺早生ゴボウ、馬込三寸ニンジン、東京長カブ、青茎三河島菜等が栽培されていて、砂村三寸ニンジンと伝統大蔵ダイコンは、採種用がいけられていた。

今回、植松先生をお誘いしたのは、固定種の時代に農家指導をされた当時の技術を、学生たちに伝えてもらいたいとの思いからで、夏には渡辺正好翁に来ていただいた事は、当ブログで紹介している。上の写真をクリックする。
植松先生は、当時、自分が撮られた写真を取り出し、説明された。
植松先生の話では、大蔵ダイコンは練馬ダイコンの「秋詰まり」と「晩丸(おくまる)ダイコ」の自然交雑により生まれたもの。
「晩丸ダイコ」は晩生で寸胴の短い尻丸ダイコンだそうで、大井あたりで栽培されていたものが、杉並、世田谷に移ってきていた。
オリンピックのころまで栽培されていたようだが以後見かけなくなってしまったという。
石井泰次郎氏が大蔵ダイコンを種苗登録するのに指導されたが、当時のダイコンの長さは40〜45p、太さはおでんの具によい大きさで、煮込んでお皿に乗せた時に大き過ぎずの太さだと言う。
畑の写真は石井さんの長男だが、間作に蕎麦を植えることで、アブラ虫を大根に寄せ付けない方法をとっていたという。
この栽培法は、その後農薬が普及したことから、忘れ去られてしまって、知る人はいない。貴重な写真だ。
また、普及員でも畑には靴では入れてもらえなかったという。それだけ畑を大切に考えていたと言う。
植松先生と学生たちとの出会いは、同行のブログに掲載された。

植松先生は、世田谷の豪徳寺の北にお住まいだか、電動自転車でやってきた。
生徒達に見送られたが、「お役に立てればまた来ます」と言ってくれた。
クリックすると、園芸高校の正門からのイチョウの並木は北側は葉が落ちてしまったが、南側は綺麗に色づいていた。
植松先生は、「大蔵ダイコン」の他「馬込三寸ニンジン」、そして下山義雄さんが取り組んだ下山千歳白菜の種苗登録において手続きや栽培指導などのお手伝いもしている。