子供の頃を目黒で過ごしたと云うと、「目黒と云うとサンマですね! 」とよく云われる。目黒のサンマは、落語の題材だが、目黒には孟宗竹のタケノコが特産の時代が事実あった。

安永年間(1772-81)に幕府御用の回船問屋を営んでいた山路勝孝が、現在の品川区戸越に別邸をもうけたたおり、特別な産物もなく貧しい農家の生活が楽になればと、薩摩から孟宗竹の種竹を取り寄せ移植した。地味にも合い、地域には立派な竹林ができて、戸越のタケノコとして知られるようになった。 このタケノコを近くにある日本三大不動尊の一つで、江戸市民の信仰篤い目黒不動尊の門前で、料理屋が春先にタケノコ飯にして食べさせたことから一躍「目黒のタケノコ」として、江戸市中に聞こえるまでなり、遠くから食べに来るようになる。しかし、昭和の初めには、戸越や目黒は都市化が進み、世田谷から城北方面へ、また、三鷹から多摩地区へと産地が移転していった。
京都からタケノコを取り寄せて使っている割烹店の主人に、「こんなバカでかいんじゃ!」と軽蔑されたが、これが江戸のタケノコと云うものだ。昭和初期の写真を見ればわかるが、農家では早朝、自慢のタケノコの出荷作業が写っている。
古い根を掘り起こし新しい根を整えるなど、竹林は整備され大きいタケノコを生産する目黒式孟宗竹栽培法という栽培技術が、大正時代には確立されていた。
加賀野菜のタケノコも江戸から持ってきたと加賀の地では語られているが、これも大振りのタケノコだ。