2013年04月11日

神田川で水車によるそば製粉をしていた石森製粉のルーツを知る。


新宿の「東京アグリパーク」に納所二郎さんの車で、江戸東京野菜コンシェルジュ育成講座の資材を持っていった帰りに、青梅街道の中野坂上交差点の赤信号で止まったところで、ビルの一階入り口に大きな石臼と、そばの壁画が目に入った。
石森ビルの「マンション ストーンミル」ともある。
しばらくして、車は走りだしたが、それから蕎麦の話になり、結局昼食は納所さんの知っているそば屋・荻窪の「本むら庵」に向かったことは当ブログで報告した。



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あの「ストーンミル」は何だったのか、気になっていたので、江戸ソバリエ認定委員長のほしひかる先生に、ご存じか聞いてみると、さすが !、石森ビルは石森製粉の本社ビルで、石森康司社長には江戸ソバリエの講師をお願いしていたと云う。それではと紹介してもらった。

上の写真をクリックすると同社HPにリンクする。




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石森康司社長の話では、
石森家は鎌倉時代からのこの土地に住む名主の家柄であったと云う。
江戸の頃は淀橋の袂、神田川の流れを利用して、水車による製粉を行っているが、明治5年に、そば製粉業の「吉野家」として創業し、昭和13年には石森製粉所を設立している。

戦前は青梅街道沿いに5社の製粉会社があり、中野製粉組合を作っていたが、戦後は、同社だけになってしました、と云う。

杉並の農家の長老から聞いたことがあるが、かつて淀橋の辺りには、押し屋と云う連中がいて、中野、杉並、練馬辺りの農家が荷馬車に練馬大根などを積んでやってくると、長い鳴子坂を押して小遣いをせびるのだと、
また、逆に鳴子坂を下ってきた荷馬車は、淀橋から中野坂上までの上り坂にも押し屋が寄ってきたと云う。

石森社長の話では、坂上一帯には昔から味噌屋(江戸甘味のあぶたま味噌等) や、醤油屋などがあり・・・・。

中野坂上辺りは、蕎麦、麦、豆など雑穀の集荷されるような場所で、近在近郷の農家が、持ってきて売った後は、生活必需品を買って帰るなど、商業地域だった、と云う。



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平成2年に、工場は新木場に移転したが、工場のあったところに、石森製粉株式会社本社ビルを建設、正面玄関に、蕎麦の壁画と、使っていた大きなストーンミルをモニュメントとした。

上の写真をクリックする
このストーンミルは、先先代が、大正時代に製紙会社でパルプを粉砕するのに使っていたものを見て製粉に利用できるだろうと3台導入したが、製粉能力は悪く、失敗だったことから、次世代の後継者への戒めとして、先代安英氏が設置したと云う。


posted by 大竹道茂 at 00:18| Comment(0) | TrackBack(0) | そぱ・うどん・ソバリエ
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