2013年07月05日

江戸東京野菜にご縁のある三河の豊橋から女性部の皆さんがお見えになった。


愛知県からお客様が見え、秋葉原の農協観光本社ビルの会議室でお会いした。

JA豊橋女性部(木田きよゑ会長)の役員さんたちで、同行された大野庄一JA豊橋の常務理事共々早朝の7時前にバスで出発し、昼過ぎに東京につかれた。
お疲れだったのではと思ったが、皆さんお元気で、役員研修として、一時間ほどの時間をいただいた。



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現役時代に、三大都市圏の農家と消費者が一体になって、都市に農地はいらないと云う国の政策に立ち向かった時代があり、中部圏にも何回か伺ったことがあった。

当時、1980年代の市街化区域内農地は、近畿圏の大阪では水田が7に対して、畑が3だったが、首都圏の東京では逆で、畑7に対して水田が3だった。
中部圏の愛知では、畑と水田のバランスが5対5の半々で、バランスのとれた地域だったのを記憶している。

今回は、伝統野菜を通して江戸と愛知とのご縁、土地の名前のついた伝統野菜を通して、地産地消の意識が、広がっていること等を、お話しした。



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愛知県は、尾張と三河とに大きく分けることができるが、江戸の野菜文化は、愛知の文化の影響を受けている。

上の写真をクリックする
江戸の代表的な野菜は、練馬大根だが、この大根は、五代将軍の綱吉がまだ松平右馬頭(うまのかみ)だった時、尾張から大根のタネを取り寄せて、練馬の農民に栽培させたことから、土地の地ダイコンと交雑して、1bもある立派な大根が生産されるようになる。

その後、練馬大根は、江戸土産として全国にタネが持ち帰られ、全国に練馬系の大根が今も受け継がれている。



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お客様の豊橋は三河の地域にあたる。

上の写真をクリックする
三河島菜が栽培されていた、「三河島」の名のおこりは、諸説があるが、天正18年家康の関東入国にあたり,三河国の旧地を捨ててきた三河武士たちが賜った知行地という説がある。

広重の「名所江戸百景」に描かれた、「箕輪(三ノ輪)、金杉、三河島」は、隅田川の東一帯で農村だった。

江戸時代の、漬菜の代表として好まれていた三河島菜は、昭和の初めに絶滅したと云われていたものだが、今や、荒川区の観光資源となっていることは、当ブログで紹介している。

漬菜の代表になった「三河島菜」は、どこから来たのか、三河武士たちが持ってきたものなのか・・・
改めて、豊橋の皆さんに「似たような野菜はありませんか! 」と・・・聞いてみた。

皆さんには、ご静聴をいただき、幾つか激励や、ご質問をいただいた。

帰りがけに、シソの花、花穂と穂じそを生産している方からご質問をいただいた。いつ頃から花穂などは利用されるようになったかと云うものだった。
今回は触れなかったが、45−6年前に、豊橋の農家の皆さんが、足立の花穂農家に視察に来たことがあったが、その後電照菊栽培の技術を生かして皆さんたちは、花穂の大産地に育て上げ、大田、築地の市場シェアも高い、

江戸での食文化が花開いたのも、文化文政の時代で、詳しく調べていないが、その頃ではないかとお伝えしたが、栽培農家として、江戸での歴史を知りたかったようだ。

5日は、スカイツリーの眺望を楽しんだ後、
輸入食品の現状として、横浜の野積み倉庫を視察するようだ。
TPP対策を含め、地産地消の更なる実践を推進するうえでも、充実した研修旅行になったことだろう。

JA豊橋の前田昌則課長、Nツアー豊橋支店の山田佳将さんお世話になりました。


posted by 大竹道茂 at 00:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 食育・食農・講演会等
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