2013年09月20日

「江戸東京野菜」新たに4品目が決定され、34品目となる。


JA東京中央会では、18日、江戸東京野菜推進委員会を、JA東京南新宿ビルに於いて開催した。

今回、江戸東京野菜品目登録について、定義に則って慎重審査を行った結果、新たに4品目を決定した。
 
江戸東京野菜はこれまで、30品目だったが、新たに決定した、内藤トウガラシ、鳴子ウリ・府中御用ウリ、三河島エダマメで、34品目となった。

注、黄金(こがね)のマクワウリは銀マクワでありながら黄金はそぐわないとして、小金井マクワに名称が変更された。





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内藤トウガラシ


品種特性
 実が房のように集まって付き、上を向いて実る。葉の上に実るため、実が熟し霜が降りると畑一面が真っ赤に染まる

産地の歴史風土
内藤家の菜園(後の新宿御苑)から広がった野菜の一つで、文化7年(1810)から文政8年(1825)にかけて幕府が編纂した「新編武蔵風土記稿」において、「世に内藤蕃椒(とうがらし)と呼べり」と紹介され 近隣の畑一面を真っ赤に染める光景は壮観だったといわれる。また江戸の食に欠かせない香辛料として、七色唐辛子などで広く親しまれてきた。

唐辛子売りの口上に、「入れますのは、江戸は内藤新宿八つ房が焼き唐辛子」ともうたわれていることでもその普及ぶりが想像される。



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府中市の都立農業高校では、大谷敦子教諭の指導で栽培された。


鳴子瓜・府中御用瓜

品種特性
 果実は薄緑で、縦縞は緑濃いが、熟すと薄緑が黄ばんできて、緑濃い縞は熟後まで残る。
熱期に入ると、メロンのような香りがし、完熟するとへたから実が外れる。

形は、中央が少しへこんだ俵型の小ぶりな果実。
 長さ15-16センチ、胴回りは直径 6〜7センチほど、表面は、ビロード状の細かな毛が生えているのが特徴で、他のマクワウリとの違いが分かる。

産地の歴史風土
 府中の史実によると、徳川氏の入国以後、幕府への上納の例としては、東京湾に面する品川以南の漁師町、「御菜肴八ケ浦」、多摩地方で、多摩川の鮎上納、小金井の御用粟、野菜は、葛飾郡隅田村、府中と柏木で、真桑瓜の栽培・上納が課せられていた。

 江戸柏木の成子の御前栽について、文政の『江戸町方書上』、
一、当所名産鳴子瓜の儀は、元和年中の頃、専ら作り上納致し侯由。年々瓜畑を選び、反別・持主名前など書上げ作り申し侯由……。」とあり、「鳴子瓜」の名の起こりが説明されている。

 府中では、真桑瓜栽培の御用農夫として技術に買われ、美濃国の上真桑村百姓庄左衛門と下真桑村百姓久右衛門の2人が、府中に召し呼ばれた。
 彼らは毎年2月初めごろに、美濃から府中にきて、御用瓜の栽培を勤め、上納の御用が済んで、夏8月未には、ふたび美濃へ帰って行った。美濃と府中との間を、毎年、半年ごとに往来していた。

 美濃のタネを持ってきて、栽培した例にならい、本巣市の「まくわうり栽培研究会」の栽培したウリを購入、同研究会・林克二会長とは、共に普及振興していくことを約束している。

 鳴子ウリと府中御用ウリは同じもので、新宿では鳴子ウリと呼び、府中では府中御用ウリと呼ぶ。

 本年度は、新宿区立柏木小学校で復活栽培を実施
 西東京市の矢ケ崎宏行氏が栽培。

府中御用瓜は
JAマインズに依頼、西府地区の石川孝治さんも栽培している。




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三河島エダマメ

品種特性
 枝豆にも大豆にも向く中生種。中間地での5月まきで大豆用に。(晩生種は6、7月まきしないと実がつかない場合が多い)葉は横に広がり濃緑、毛は白毛。完熟した大豆は黄色の大粒である。小枝の間隔がせまく、さやが密にたくさんつくため、収量が多い。ゆでると甘みが増す。

産地の歴史・風土
 徳川家康は尾張、遠州、駿河などにいた配下の商人から農民までも江戸に連れてきたが、その中で三河の百姓を入植させた地と云われる三河島と名付けたとの説がある。

 明治時代を迎え市街地の拡大や輸送方法の進歩などにより、農地は徐々に工場・宅地へ変貌していったが、三河島の地名を冠したまま生産地を変えて全国に広まった。




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たけのこ(孟宗竹)

品種特性
 マダケ属の大型の竹。竹の表面に白い粉が吹いたようになっていて、日本の竹では最大の太さで、大きなものは直径約20センチにもなり、在来の、真竹、淡竹(ハチク)とは、明らかに異なる。筍も、太く、早ければ4月末、遅くとも5月中旬には初物が採れる。

 その皮はこげ茶色をしており、表面にはビロード状の細かい毛が生えているのが特徴で、他のタケノコと見分けられる。
 大型で肉厚、実は白く柔らかで、えぐみも少なく、甘みを含んだ独特のうまみと、歯ごたえがある。

産地の歴史風土
 孟宗竹が初めて江戸に入ったのは、薩摩藩主島津重豪が宝暦年間(1751〜64)に国許から鉢植えにして将軍家に献上し吹上御苑に植えられた。

 また、江戸鉄砲洲の回船問屋・山路治郎兵衛勝孝が安永年間(1772〜81)平塚村戸越(現・品川区武蔵小山)に別邸を建てているが。

戸越に特産物のないことから、寛政元年(1789)農業振興に薩摩から孟宗竹を取り寄せ戸越の地に植え付け、消費拡大にも力を入れた。
孟宗竹については、当ブログで調べたことを紹介している。

 その後、品川から、目黒、世田谷、さらには東京全域に栽培面積は広がった。

 孟宗竹は、将軍家から諸大名の大名庭園へ下げ渡されたものも多く、そこから広まったものも多い。

 東京の孟宗竹は、江戸期以降に、このようにして、増えたもので、数代前から農家の屋敷林の一部になっていることが、家人によって判明し、申請のあった孟宗竹を、江戸東京野菜として認めていく。



posted by 大竹道茂 at 00:53| Comment(0) | TrackBack(0) | その他関連情報
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