八王子市川口の犬目で、宗兵衛裸麦を栽培している濱中洋子さんから、裸麦の穂が出たという情報と共に、スマホで撮影した写真が送られてきた。
先日伺ったのは、1カ月前で、あの後、穂が出ようというタイミングで降雪により雪で押しつぶされたそうだが、その後の、気温の上昇で元気に穂が出たと云うもの。
濱中さんは、
「農の生け花」(前回)の花材として、宗兵衛裸麦を栽培しているが、「農の生け花」のグループ「
八王子のぎく会」の大先輩に、河井澄江さんがいる。

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澄江さんは現在80半ばで、裸麦を作った河井宗兵衛の血を引く家付き娘だったから、宗兵衛の事は伝え聞いていて、「伝統野菜は長老に聞け」ではないが、濱中さんは親しく話を聞いている。
宗兵衛は、初代宗兵衛の長男として、嘉永6年に(1853)、武蔵国下川口村堀口に生まれた。
幼名を浜造といい、父宗兵衛の志をうけ継いで、研究熱心で農業技術の改善などに打ち込んでいたそうで、
特に日頃から食べていた大麦の一種類である裸麦の「豊年裸」という在来種の中から変異種を見つけ、よい穂を選んでは育成をくり返し、地域の気候風土に適した品種を4年あまりで固定化した。
それは、在来品種の約2倍も収量があり、耐寒性に強く、口あたりがよいという三拍子そろった宗兵衛裸麦の育成に成功した。
二代目宗兵衛は、多くの功績を残し明治43年8月に没した。享年57歳
農業の基本は土づくりにあるとして、二代目宗兵衛は栽培と共に堆肥づくりにも労力を注ぎ、収量をあげた。
また農業後継者の育成もきわめて大切であると考え、全国から子弟を預かって農業技術の指導、人格の養成に努めた。
従って河井家には常時10数人の人びとが住みこんでいたという。
宗兵衛裸麦は東京府・神奈川県で栽培が増加し、次第に全国に普及し、昭和17年(1942)に国の奨励品種に採用された。しかし、昭和35年以降、栽培は激減し、昭和50年度以降、地元では栽培する者はいなくなっていた。
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